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二次障害とは

双葉うた子。

息子が産まれて二歳になった頃だっただろうか。
福島県に住まう母子(もしくは家族、子供のみ)を、放射能の健康被害から守ると言うことでポツポツと色々な場所で「母子保養」や「家族保養」、年齢が大きい子であればもちろん「子供だけでも参加できる保養」なんかを行ってくれる施設や団体が現れた。
いや、もうだいぶ前からあったのかもしれないのだが、私がその存在に気づいたのがその頃だった、と言う感じだ。
主にボランティアの方々でまわしており、その施設の運営は寄付を募って行われているらしかった。
私はその辺はあまり詳しくない。
ボランティア側では、参加したことがないので知るに知れないが、そういうチラシやネットでの宣伝には「寄付をお願いします」と言う言葉が割と散見されていたように思う。
とてもありがたいことだと、本当に心から思う。
しかしその理由は、私が「放射能による健康被害に不安を持っていたから」と言うわけではない。と、言っておく。

私は東日本大震災での原発事故にあい、故郷の実家を追われたが、それでも事情があり福島県の「人が住める街」に避難して幼い息子と共に暮らしていた。
これは今までのnoteの記事に書きまくっているので、あまりにも時間が余って余って仕方ないけどスマホの文字を読むことくらいは出来るかな、そんな気分だな、ちょっと読んでやるか、なんて思ってくれた人が万が一いらしたら読んで頂けるとありがたい。やたらと長いんで。

いつも原発事故と、放射能による健康被害、汚染水の処理、原発に賛成か反対か、について私は何も自分の考えは発信しないこととしている。
これは絶対だ。
「息子を差別と偏見から守る為」に私が心に強く決めていることなので、私のことは「原発事故で被災して、故郷を失い避難生活をしているだけのただの母親」とだけ思ってくれたらいい。
ただ、息子には私が受けたような差別や偏見を受けて欲しくはないので、幼稚園にあがる前に私たちは二人とも住民票を避難先へと変更した。
「息子の生まれ育つ土地はこの避難先である街」でいいのだ。
ただ一つ、私は戸籍だけはせめて愛する故郷のままで、と言う気持ちをどうしても捨てきることが出来ず、それだけは今でも故郷のままになっている。

その、「原発事故で被災して、故郷を失い避難生活をしているだけのただの母親」である私はADHDであり、アダルトチルドレンであり、二次障害もバリバリに発症して生きて来た人間だった。
ずっと心療内科に通い続け生きて来て、さらに母親になった今でも精神科に通院しカウンセリングを受け、お薬をバリバリ食いながらなんとか生活している。
そして息子もまた発達障害であった。
それは検診がきっかけでわかったことであり、私はたくさんの児童精神科に息子を連れて行き、息子に合う病院や医師を探し回って、最終的にはなんとか同じ市内にあるとても良い児童精神科の主治医と出会うことが出来た。

療育に通いはじめる少し前、私が心配していたのは「息子がもし、将来二次障害を発症してしまったらどうしよう」と言うことだった。
私のような人生を歩ませるわけにはいかない、と思ったのだ。
私は私自身の人生をフルコース全て含んで後悔はしていないが思い返せば「別にやらなくても良かったこと」や「会うべきではなかった人」と言うのはやはりいるものなのだ。
それも込みで私は私自身の人生全てを血肉として受け入れているが、そうできるまでには長い時間を要したし、飲み込むまでは苦しみも辛さも悔しさもあらゆる残酷な事象をも餌付きつつ飲み込んできたと言う経緯がある。

これ、息子が将来なった場合、耐えられるの?
私、何百回死のうとしてきたっけ?
飲み込めるまでだいぶ時間かかるし、息子がその全てを受け入れられるまでの時間帯を、私は共に側で見守り続けてあげられるくらい、長生きできるのか?

色々考えた。本当に悩んだ。それだけ発達障害で生きて行くと言うことは(ACのせいもあるが)私にとってぶっちゃけキツかった。
そして今現在でもたまに多少キツい。
小さな息子の手の平をぎゅっと握ればあたたかいし、自閉症スペクトラムの特性だったのだろうか、毎回同じ散歩のコースを好み、毎度おなじみの側溝にたどり着けば毎日石を延々と落とし続けるのだが、それだって私からしたらとても可愛らしい行為だった。
発達性協調運動障害でもあった(のちに診断がおりる)息子は、まだまだ短い脚でポテポテと走れば良く転んだし、ADHDでもあるので過集中になれば名前を呼ばれてもずっとプラレールのレールを走る新幹線の玩具を眺め続けた。
走り出せば止まらないし、どこまでも一人で行ってしまうような気がして、歩道を歩く時には手は離せなかったし、抱っこ紐やスリングは三歳くらいまで使っていた。
って言うか公園で走り出して池にそのまま落ちて、すぐさま私も飛び込んで救い出したと言う事件も普通にあったので、マジで道路に飛び出して轢かれてしまうのでは、と言う恐怖は今でも持っている。

私が子供時代を過ごしたのは、福島県の双葉郡大熊町だ。
たくさんの自然に囲まれ、夏や秋にはお祭りがあり、小学校は結構ゆるい校風だったので、多少はみ出た私でも楽しく過ごすことが出来た。
それでも私は「なんだかみんなと出来ることが違う」「ここに居てはいけないのかもしれない」と言う気持ちがわきあがることがあり、小学校1年生からリストカットをはじめてしまった。
放課後は友達や従弟、従姉妹たちと真っ暗になるまで遊んだり、時には祖父母と共に川で鮎釣りを楽しみ河原で鮎ご飯を炊いてもらい食べたりもしたし、山に入ってキノコ採りに行き行方不明になって捜索隊を出されそうになったこともあった。
あとイナゴがびっしりとまるで実っているかのように枝にくっついているのを取って祖母と共に佃煮を作ったりとか、まあ本当に楽しかった。
夕飯の準備を手伝ったり、犬の散歩をしながら歌を歌ったり、自然の中で育つと言う経験はとても良かったことのように思う。
ただ、時に機嫌が悪かったり、悪酔いをした父から暴力を振るわれ、真冬の雪の降る庭に裸足でほおり出されたり、母親のヒステリックな怒鳴り声、時にどてっ腹に飛んでくる蹴りにより、立派なアダルトチルドレンとなった私にとっては「家は居心地の良い、自分の居ても良い場所」ではなくなっていった。

余談だが、父と母はとても若くして結婚し、子供は生まれてみたら双子だった。
しかも二人とも発達障害だ(大人になってから診断された)。
育てるのはとても大変だったのだろうと思う。
今だったら、誰も悪くないのではないか、なんて呑気な気持ちで言えるのだが、私にとって小学校時代、中学校時代、高校時代、そして息子が出来るまで、父親の存在は恐怖の対象でしかなかった。
原発事故で色々な物を失い「やっぱり最後は家族だな」と一言だけ避難先で呟いた父親。
息子が出来てから、つまり孫が出来てから、父はもっと変わり出したと思う。
だから今はもういいんだが、とにかく昔はあまりにもひどい有様でバリバリのアダルトチルドレンになってしまったのだ。

中学生になると私はさらに学校へ行くことが苦痛に感じ始めてしまうようになった。
学校へ行ってもクラスの中に入れないのだ。
友達はいたし、いじめに合っていたわけでもなかったのに、机に大人しく座って授業を聞いていることが苦痛だった。
私はノートには絵ばかり描いていたし、唯一中学校で大好きだった部活の時間が早くやって来ることだけを願いながら毎日を過ごしていた。
学校を休む為にストーブに脇の下を当て続け、それから体温計で熱をはかって42度とか言う体温を叩き出して母親にさすがに呆れられた日もあるし、学校を休んでいることがバレて父親に無理やり車にひっぱり込まれて中学校のある丘の下に蹴りだされたこともある。
妹が教室へ行きたくないと言えば、私は剃刀で脚や首を深く切りつけ、二人で真っ直ぐに保健室へ向かったりなどしていた。

高校はもうほんとほとんど行っていない。
ギャル化して友達とカラオケに行ったり、先輩の家で過ごしたりしていた記憶しかない。
何故か友達はいつもいたのだ、かならずクラスに行けば喋ってくれる子はいた。
それなのに、私は「学校も、自分の居場所ではない」と言う思考に囚われてしまっていた。
「学校」と「家」しかなかった私にとっては、それは絶望的なことだった。
その都度その都度の、「絵を描く」ことであったり「部活」であったり「恋人」であっり、次々と目まぐるしく変わる「短い期間しかいられない居場所」では、私の心は満たされることはなかった。
世界を知らなかったからだと思うのだ。
とても狭い狭い視野で生きていたのだと思う。
これ以上長くなると普通に息子の話から脱線するので、もっと端的に書けば良かったと多少反省している。

とにかく小さな頃から十八歳になるまでは、息子は多分私と共にこの家で暮らすのだろうと予想し、「どこにも自分の居場所はないのだ」と思わせてしまうような状況になってしまうことだけは避けようと思った。
発達障害だろうがなんだろうが、自分の好きなことを見つけて、自分の得意なことを見つけて、夢中になれたらそれは良いことだし、きっと楽しいだろう。
なるべくたくさん好きなことを見つけてもらい、得意なことは見つけるのが難しくてもいいから、やってみたいと言ったことにはなんでもチャレンジさせてあげようと思った。
そして私はもう一つ、「世界は家と幼稚園、学校だけではない」と言うことを息子に教えてあげたかった。
この私たちが住む福島県だけでもたくさんの人がいるが、その外である日本にはもっともっとたくさんの人がいて、もちろん自分を傷つけて来る人もいるけれど、ちゃんと手助けしてくれたり、支えてくれようとしてくれる人も当たり前にいるのだと言うことを知って欲しかった。
なんと言っても私自身が、原発事故で被災してから差別や偏見にさらされ生きる気力を失っていた時に「受け入れてくれた産院があったこと」や、この「保養施設」と言うものを知って、そのことに気づいたからだ。

一番初めに行ったのは、沖縄の久米島にある保養所だった。
避難先である家の玄関のポストにチラシが入っているのを見つけたのだ。
私は以前どっかの記事でCoccoと言う沖縄のアーティストが好きだったから沖縄に行きたいと思った、沖縄に憧れていた、と書いたのだが、私は息子に広い世界を見て欲しい気持ちもあった。
何より、海を見せたかった。
私たちが住んでいる福島県の避難先の家の周りには海はない。
私の故郷には海があった。私はよく抑えきれない衝動に駆られたら海に行ったものだった。
そして、私たち親子は初めて沖縄へと行った。

めちゃめちゃ暇だったらで大丈夫です。超長いので。

そして、この保養施設が保養者を募集するたびに、私は応募するようになった。
何度も何度も行って、そのうち息子が小学校にあがると、学校があるので保養の日にはなかなか上手いこと休みが合うと言うこともなくなってしまったので、春休みや夏休みや冬休みに自腹で沖縄の久米島に息子を連れて二人で旅行に行くことが増えた。
長期休みのたびに行っていた。

久米島の空港で良く会うお土産屋さんでバイトをしているお母さんの娘さんと仲良くなったり、時々は保養者を受け入れる為の準備をしている保養所に出向きお手伝いをしたり、ちょっとボランティアさんと遊んでもらったりなんてした。
いつの間にか、沖縄本島の那覇に宿泊する際は、エレベーターで次に乗って来る宿泊客の方に「こんばんは」と挨拶したり、「何階ですか?」なんて聞いて、ボタンを押してあげるようになった息子。
とてもとても疲れるのだけれど、たくさんの人と出会ったし、たくさんの出来事があった。
息子は、色々な場所に行き、その先で出会う人たちに優しくしてもらったことの一つ一つを覚えているだろうか?
あまりにも小さな頃のことは忘れてしまっているかもしれない。
けれど、息子の心に残っていればいいな、心の栄養になって、そうして育って来ていればいいな、と思う。

何度二人で沖縄へ行っただろう?
コロナは流行り出すまでは、毎回10日間くらい沖縄に滞在していたのだが、コロナが流行り出して一旦沖縄への旅行は中断されてしまった。
そう言えば、母子保養で宮崎に一週間行ったこともあるし、山形の週末保養では土日廃校に宿泊したり、ベラルーシへ一週間撮影旅行、なんてこともあって、今思い返せば本当に色々なところへ行ったっけ。
とりあえず去年の冬と今年の冬は、コロナが増えていなかった時期だけ、県内のスキー場隣接のホテルに宿泊して、スノボを初めてやった。
息子だけだが。
私は生まれつき片脚のくるぶしがおかしくて、歩くことには支障はないのだが運動が壊滅的にできないのだ。
しかし、スノボは良かった。
息子はスノボが大好きになった。
プライベートレッスンの先生もとても良い方で、息子への教え方もすごく優しくて上手だったようで大満足だった。
発達性協調運動障害をもっていても、運動をやってはいけないなんて、そんなことはないのだ。
苦手だっていいのだ。好きになったり、やっているうちに上達したり、そういうことだってもちろんあるのだ。

私は息子と一緒に幼い頃の自分を育て直している。
私は息子が産まれてからずっと、私自身の育て直しを一緒にしているのだ。
二度書いてしまった。
そのくらい、気づかされることが多いし、気づけることが多い。
考えることもたくさんあるし、悩むことだって、時に気分が塞いでしまうようなことだってあるけれど、それでも私は諦めない。
もう二度と諦めない。
息子が産まれてからの私は、私のことが嫌いではなくなった。
以前できなかった、自分の人生全てを丸ごと「なんとかやって来て良かった」と思えるようになったのだ。
私は息子と共に日々生きられる今の生活を守る為ならばなんだってする。
命よりも大切な息子だけれど、私の命がなければ息子を最後まで守り切れないので、私は私の命も大切にすることにした。

息子がもし二次障害になったら…

つい、考えずにはいられないけれど、出来るだけそういうことがないように。
もしも、そうなってしまった時は、なんでも話せる母親であるように。
その為に私は精神科に通い、カウンセリングを受け、処方されたお薬をバリバリと食いながら、自分の精神を安定させておく。

しかしふと思うのだが。
二次障害バリバリだった頃の、若い頃の自分は果たして不幸だっただろうか?
今は息子がいるから、全ての過去を〇に出来てしまってもはや感覚がマヒしてしまっているのだが、二次障害になったからこそ見つけられたものや、出来るようになったことなんかもあったりするのだ。
けれど、これってもしかして「拾ったものは全て大事だと思い込んでいて、無駄なものを見つけられず身体や頭がどんどん重たくなっていくだけの人」の考え方だろうか?
ちょっと自分の人生で無駄だったものもあったなとは感じていなくもないけれど、それだって今に繋がる為の自分を作った一部だし。
どうなのだろう?
書き終わる最後の方でちょっとした疑問にぶちあたってしまった。
そういうこともままあると言うことで。

〇!!




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