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海底列車

深海の底の底を、ことことと走る列車がある。

始発駅がどこで、終着駅がどこなのかは誰も知らない。ただ、先頭にチョウチンアンコウからもらった仄暗い灯りをゆらゆらさせながら、闇の向こうからどこからともなく現れるのだ。

その男は、7つ目の停留所でその列車の来るのを待っていた。

いつから自分がそこにいるのかもわからない。どうやってここへ来たのかも、どこへ行くつもりなのかも、波に揺られるうちに曖昧になってきた。

7つ目の停留所というのも、すっかり錆びてところどころに穴のあいた看板に「ななつめ」と書かれていたからそう思っただけのことだった。

彼は、スーツを着て、姿勢良くそこに立っていた。看板に取り付けられたチョウチンアンコウのわずかな灯だけを頼りに、ときおり腕にはめたシルバーの時計を眺める。何度たしかめても針は9時18分を指したまま、錆びて動かない。もはやこの場所には、時間という概念はないのだった。

だからどれほどの間そうしていたのか、男にはわからない。あるとき不意にキインと金属のこすれる音がして、暗闇の向こうから唸るようなくぐもった振動が伝わってきた。

振動は次第に大きくなり、遥か彼方にぽっと灯った小さな明かりが、みるみるうちに迫ってくる。

闇を切り裂いて、海底列車がやってきたのだ。

列車は男の前に止まると、うやうやしくドアを開けた。電気が通っているのか、車内に吊るされた裸電球はどれもちかちかと明滅している。ドアからこぼれ出したその光は、深海に馴染んだ男には眩しすぎるほどだった。

男は、まるでそうするのが当然であるかのように、光に目が慣れるとためらうことなく列車に乗り込んだ。

うやうやしくドアが閉まり、アナウンスもなくゆっくりと動き出す。

1両編成の木造りの車内には、男以外にも数人の乗客がいた。

子どもも、老人もいた。それぞれ、立ったり座ったりしながら、呼吸に合わせて小さな泡をこぽこぽと吐き出している。

男は不意に、「少しずつ何かを忘れていたのだ」と思った。

「忘れている」ということを、男はその光景を見て思い出した。ただ、それがなんなのかはわからなかった。

窓の外には延々と深海の闇が続いていた。前に進んでいるようにも、後退しているようにも、止まったままのようにも思えた。

つり革につかまりながら、男はひとつため息をつく。

口からこぼれた泡はゆらゆらと意思を持ったかのように水中をかき分けて登り、天井にぶつかると散り散りになって消えた。


***

最終の海底列車に揺れながら泡をこぽこぽ吐く乗客たち

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