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鐘を鳴らせ

帰り道の途中に、小高いやぐら造りの鐘がある。

ずっと当たり前にそこにあるから、その鐘が鳴る音を聴いたことがないというのも、どうしてそこにあるのかも、考えたことがなかった。

そんなことをふと思ったのは、今日、学校でいやなことがあったからだ。

悔しくて、みじめで、ひとりで歩く帰り道が途方もなく長い。

それでも「下を向いて歩いたら、幸せが逃げていく」と小さい頃から言われつづけていたからか、つらいときほど上を向いて歩くくせがぼくにはあった。

気がゆるむとあふれそうになる涙を瞳いっぱいに溜めて、歯を食いしばって歩く。だから、夕焼けの赤を背景に黒くそびえるその鐘つきやぐらが目に入ったのだ。

鐘の横には、人影があった。あそこに人がいたことなんてあったっけ、と思ったけれどその記憶もあいまいで心許ない。やぐらの柱に寄り掛かり、なんとなくぼくを見下ろしているように、その人影は見えた。

だからぼくも立ち止まってその人を見上げた。

逆光に目が慣れると、その人の姿がだんだん見えてきた。その人は、甚平を着て、下駄を履き、顔には狐のお面をかぶっていた。

「少年」

不意に声をかけられる。一瞬、つらかったことやすべてが頭から抜け落ちる。

「ぼく?」

「鐘を鳴らしていきな」

その人は、それだけ言うと、鐘へとつづく梯子を指さしてぼくを手招いた。

「なんで、ぼくが……」

戸惑っていると、手の振りがいっそう強くなる。

「いいから。日が暮れる前に、早く」

わけがわからなかったけれど、言われるがままに梯子をのぼる。

高さは3,4階建と同じくらいだろうか。あたりが一軒家ばかりだから、すこんとここだけ抜けている。足がすくむのを抑えて、なんとかのぼりきる。

決して塔と呼べるほどの高さではないのに、のぼったところからはずいぶん遠くまで見渡せた。小学校も、ぼくの家も見える。自転車でも行ったことのないところも少しだけ見える。

その人は、ぼくと同じように景色を眺めながら、

「どうしようもないことがあったとき、理不尽なことに見舞われたとき、そんなときのためにこの鐘はある」

と言った。

「どうにもならないことに対して、俺たちにできることは、鐘を鳴らすことくらいだ。ここにきみがいるんだってことを、大きな音で届けるんだ」

どうして何も言わないのに、ぼくがつらいことをわかるんだろう。そう思ったけれど、尋ねるのは野暮な気がした。お面の奥のその人は、ぼくのことをよく知っている、なぜだかそう思った。

「さあ、いいよ。きみのタイミングで」

ぼくは、うなずくと、思いっきり鐘をついた。

思ったよりも澄んだ音が街中に響き渡る。

広がる余韻の中でその人を一度だけちらりと見て、また鐘を鳴らす。

ごおーーーーん、ごおーーーーん、ごおーーーーん。

鐘の音に、ぼくの気持ちが乗っていくようだった。ひとつ鳴らすごとに、抱えた荷物がひとつずつ夕焼けに溶けていく。

全部で5回ほど鐘を鳴らすと、ぼくの心はみょうにすっきりとしていた。肩からずり落ちたランドセルを背負い直して後ろを振り向く。

その人は、いなかった。

それどころか、目の前に広がるのはいつもの通学路。鐘のついたやぐらも見当たらない。

頭をゆるゆると振る。さっきまでよりほんの少し、ランドセルが軽い。

そういえば、帰り道に鐘のついたやぐらなんてなかったし、このあたりは一軒家よりもマンションの方が多い。

なんてことない当たり前のことに気づきながら、ぼくはまた上を向いて歩きはじめた。

どこか遠くから、お囃子の笛の音が聞こえてくるのだった。


***

夕暮れに鐘を鳴らしているときのぼくたちの生きているということ

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