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すずらん荘のゴーストたち

街のはずれに、今はもう誰も住んでいない古びた洋館があります。

春になると大きなお庭にいちめんにすずらんの花が咲くことから、その洋館は街の人から“すずらん荘”と呼ばれていました。

すずらん荘にはゴーストが住みついている。いつしか、街にはそんなうわさが流れていました。

晴れていても霧がかったようなすずらん荘の前を通るとき、だからモモコはいつも、ちょっぴり怖くて、とってもドキドキするのでした。

ある、よく晴れた夏の日のことでした。

モモコは、大きなソフトクリームみたいな入道雲も大好きでしたが、その日は空のどこにも雲はなく、宇宙の果てまで透けて見えるほどに街中が青色につつまれていました。

どこのおうちのベランダにも真っ白な洗濯物がはためいて、それはそれは降水確率0%のうつくしい朝。

こんな日は、虫取りに限るのです。

枕元に集まった日差しにすてきな1日を確信して、モモコはいても立ってもいられずに飛び起きました。

「おはよう!いってきます!」

ぼさぼさのねぐせもそのままに、パジャマ姿で虫かごと網を持って出ようとするので、お母さんはあきれ顔で言いました。

「言いたいことはいろいろあるけれど、まずは朝ごはん食べなさいね」

テーブルの上には食パンと目玉焼きとベーコン、それからモモコの好きなオレンジジュースがもう用意されているのでした。

「いただきますっ!」

モモコは急いで朝ごはんを平らげると、髪をとかして、お気に入りの白いワンピースに着替えて、今度こそ玄関に急ぎました。

「そうだ、ランディも」

ランディというのは、モモコの友達のくまです。普段はじっと動かずぬいぐるみのふりをしていますが、モモコとふたりきりのときにはよくしゃべる、気のいいやつなのです。

モモコはななめにかけたポシェットにランディを押し込み、夏の日差しの中に飛び出していきました。

太陽は惜しげもなく、地上にあるぜんぶを明るく照らしていました。せみの鳴き声が降りそそぐ中を、モモコはずんずん歩いてゆきました。

「ねえ、モモコ、今日はなにをつかまえるの?」

ポシェットの中でランディが小さな声で聞きました。

「今日は、ちょうちょをつかまえるの。あげはちょうとか、しじみちょうとか」

くまなくあたりに目を光らせながら、モモコは答えました。

そのとき、その言葉が聞こえたかのように、草むらの影からちょうちょが飛び出してきました。

「あっ」

モモコはうれしくて駆け出そうとした足を止めて、びっくりした顔でその場に立ち尽くしました。

「モモコ、どうしたのさ」

「なんか変だ、あのちょうちょ」

そのちょうちょは、シルクのようにつややかな赤い翅を持っていました。触角も同じ素材でできていて、遠くから見ればちょうちょ結びのリボンがひらひら飛んでいるようでした。

モモコは呆気にとられてしばらくその不思議なちょうちょがひらひら舞うのを眺めていましたが、やがてむくむくとハンターとしての野望がふくらんできました。

何といってもその赤いちょうちょは、青すぎる今日の空にはよく映えて、とても綺麗だったのです。

網をしっかり両手で持ち直し、そうっとそうっと近づくと、モモコは思い切って振りかぶりました。

「あっ、逃げちゃった」

ちょうちょはひらりと網をかわすと、路地の隙間を縫ってたよりなさげにただよっていきました。

熱気にゆらゆらとにじむアスファルトに照り返るその姿は儚くも幻想的で、モモコはドキドキを押さえきれず、夢中になってそのあとを追いかけました。

どこをどう進んだのでしょう。

気づけばモモコは、ずいぶん街のはずれまで来てしまっていました。ちょうちょが“立ち入り禁止”のフェンスを超えて入っていったのは、草花が好き放題に育っているすずらん荘の庭でした。

モモコは一瞬ためらいました。すずらん荘にはゴーストが住んでいる。そのうわさがちらりと胸をかすめたのです。そうでなくても、荒れた広い庭の真ん中に立つ西洋風のお屋敷は、こちらをじろりとにらむような威圧感がありました。

でも、お庭までなら。少し考えたあと、モモコはこっそりすずらん荘の庭に入ることに決めました。それほどに、見たことのない赤いちょうちょは魅惑的だったのです。

針金のようにはりめぐらされた立ち入り禁止のフェンスは、小さなモモコには簡単にくぐり抜けることができました。

すずらん荘の庭は、そこだけ切り取れば大自然でした。夏なので、今はすずらんの花は咲いていません。かまってほしそうにまとわりつく腰くらいの背丈がある雑草たちをモーセのようにずんずん切り開いて、モモコはリボンのちょうちょが舞う方へと進んでゆきました。

ワンピースから伸びた足をかたい茎や葉っぱがちくちくと刺して、それがあんまりくすぐったくてかゆくなるので、ときどきこらえきれずにモモコはふふふっと笑いました。すると、草の先で休んでいたちょうちょがそれに驚いて、またふらふらと逃げてしまうのでした。

ちょうちょは、なかなか捕まえられませんでした。

そうして気がつけば、モモコはお屋敷の玄関の前まで来てしまっていました。

赤茶けたレンガを積み重ねてつくられたお屋敷は、近くで見ると、モモコにはまるでお城のように思えました。

天井の高い2階建てのようでした。黒い鉄枠で囲まれた丸い窓が1階にも2階にもついていましたが、どれも内側から白いカーテンがしめられて中の様子はわかりません。

レンガの積み重ねられた上には、大きいのが真ん中にひとつ、その両脇にもう少し小さいのがふたつ、円錐の形をした紺色の屋根がついていて、それがいかにもお城のようなのでした。

凛とかまえて、長い歴史を積み重ねた風格のようなものがそこにはありました。

1階の中心には木造りの大きな両開きの扉がついていて、その脇にはすずらんの形をした呼び鈴がありました。ふらふらとただよっていたちょうちょは、その鈴の上でぴたりと止まりました。

その重みのためでしょうか。りーん、と、空気をわずかに揺らす透き通った音が、控えめに響きました。

そして、その音を合図にするかのように、ちょうちょの翅がしゅるしゅるとほどかれていきました。モモコは、目をまんまるくしてその様子を見ていました。

ちょうちょはやがて本当のリボンのようにほどけきって、すずらんのベルにくたりと引っかかりました。

モモコはなにが起こったのかわからないまま、そこに立ちつくしていました。

そのとき、ざあっと大きな風が吹き、庭中の草や半袖からのぞくモモコの腕をなでていきました。さっきまでのからりとした空気をさらって逃げていくように、その風は重く湿っていて、じっとりとしたにおいが鼻の奥に残ります。

はたと空を見上げると、どこまでもつづく晴天だったはずの空にはいつの間にか厚い灰色の雲が集まってきていて、ためこんだ力がこぼれてしまうみたいに、ときどきその中で電気がぴかっと走るのでした。

それまで幻想的でうつくしかったすずらん荘が、その怪しげな雲の下では急に不気味に見えました。その表情の変わりようはまるで、とつぜん豹変する赤ずきんの狼さながら。

生ぬるい風が、また吹きました。それに合わせて雑草たちはざあざあと、帰れとでもいうように騒ぎ立てます。モモコの首筋をじっとりとした汗がすべり落ちてゆきます。

ゴロゴロゴローン。

ついにこらえきれなくなった雷が、地面を震わせて鳴りひびきました。

「きゃあっ」

早くおうちに帰らなくちゃ!

急いできびすを返そうとしたそのとき、ぎぎぎ・・・と、なんとも不吉な音とともに、目の前の扉がゆっくりと開いていきました。

怖いのに、早く逃げなきゃと思うのに、モモコの体はなぜか凍ってしまったかのようにその場からぴくりとも動きません。

永遠にも感じられるほどの時間が経ち、やがて扉は開かれました。モモコは、もうだめだと思ってぎゅっと目をつぶりました。

「ややっ!こんなところに!」

聞こえてきた声が思ったよりものんきで、おそるおそる目を開けると、そこに立っていたのは、燕尾服を着てシルクハットをかぶった、ほんの少し体が透けて見えるおじさんでした。鼻髭のカールがくるんと決まっているそのおじさんは、すずらんのベルにぶら下がったリボンを見て言いました。

「また勝手に飛び回ったりして。朝から探したんですよ」

ちょうちょは、そのおじさんが現れるとうれしそうに首元に巻きついて、真っ赤な蝶ネクタイになりました。

モモコは、ついさっきまでのドキドキが、どこに穴が開いているのかわからない風船のようにわずかずつ小さくなっていっているのを感じていました。

おじさんは、首元に止まった蝶ネクタイを機嫌よさそうに整えながら、そのときようやくモモコがそこに立っていることに気がつきました。

「ややや、これはこれはお客さんだ!」

すっとんきょうな声をあげると、取り繕うように大あわてでシルクハットの角度を調整したり燕尾服をしゃんとしたり、身だしなみを整えはじめました。そして、それがあらかた整うと、おもむろに髭をくるりんとなでながら

「ささ、外はもうじき降るでしょう。よければ上がっていってくださいな」

とさっきまでと少し違うダンディーな声で言いました。

「あの・・・でも・・・」

モモコは、そのおじさんがきっと悪い人じゃないと思いながらも、まだ残っているドキドキを押さえきれずに少しためらってしまいました。

すると、ポシェットがむぐむぐと動き、中からランディがよいしょよいしょと出てきました。

「わあ、すてきなお屋敷とすてきなお髭だ!それじゃあおじゃまして、と」

そして、モモコがためらうよりも早く、ぽてぽてと走りながら扉のすき間からすずらん荘の中に入っていってしまいました。

「あっ!こら、もう、ランディったら・・・」

「ははは、愉快なくまさんですな。実にけっこう。さ、よければお嬢さんも」

ランディはときどきこうして、モモコ以外の人の前でも動けることがあって、そんなときはたいがいすてきなことが起きるということをモモコは知っていました。おじさんの蝶ネクタイがここまで連れてきてくれたことがなんだかうれしかったこともあり、モモコもすずらん荘に入ってみることにしたのでした。

「じゃあ、おじゃまします」

中は、外から見るよりもずっと綺麗でした。アールヌーヴォー風の豪華な家具や調度品がそこかしこにしつらえてあります。

モモコは入り口の大広間の右の部屋、長い大理石のテーブルと椅子がずらっと並んだ食堂に通されました。

小ぶりのシャンデリアが4つ天井からぶら下がって明るい室内と裏腹に、カーテン越しの外は降り出した雷雨が嵐のような激しさを見せていました。

「おーい、みんなあ。お客さんだぞー」

おじさんがそう声をあげると、あちらこちらからわらわらと、おじさんと同じように少し透明な人たちが出てきました。

大人も、子どももいます。モモコと同い年くらいの女の子もいます。みんな、スーツやドレスといった、西洋のパーティーのようなおめかしをして、楽しげな表情を浮かべています。

先に入っておいしいものが落ちてないかしげしげと家の中をながめていたランディは、そのうちのひとりの男の子をつかまえて、なにやら意気投合したようにおしゃべりをはじめました。

「まあかわいい。あっち側の子がここにくるのはめずらしいわねえ」

黄いろいドレスにソフトクリームのような髪型をした女の人が、ふちに白いふわふわのついた扇子をあおぎながらモモコに向かって言いました。

「あっち側?」

モモコが尋ねると、おじさんが代わりに説明をはじめました。

「わたしたちはみーんなゴーストなのです。このおうちは、わたしたちが暮らす“こっち側”の世界と、お嬢さんたちが暮らす“あっち側”の世界の、いわば中継地点なのですな」

すずらん荘には、ゴーストが住んでいる。うわさに聞いていたその言葉が、あらためてモモコの頭をよぎりました。

「そっかあ、ほんとうにおばけなんだ」

「おばけじゃなくてゴーストね、お嬢ちゃん。あたしたちは別に化けたりしないんだから」

「ゴーストたちはみんな、廃墟になったおうちに住んでます。廃墟というのは、言ってみれば、おうちがゴーストになった姿ですからね」

「それで毎日パーティーやってるの!わたしのドレス、かわいいでしょ?」

いつの間にかそばに来ていた、モモコと同い年くらいの女の子が、ピンクのワンピースをひらひらさせて言いました。

「わあ!かわいいねえ。モモコもこういうお洋服着たいな」

「まあ、寝るときはステテコに腹巻きですけどね」

おじさんがおどけたように言うのを

「それはあなただけでしょ、もう」

黄いろいドレスのゴーストが呆れた声で制します。

「みんなは家族なの?」

「家族も家族!わたしから数えてひいひいひいおじいさんの代から、ひまごの息子まで、みんなここにそろっておりますぞ」

「こっち側に来てしまえば、年も取らないしどこへ行くこともないの」

「なんだか、思ってたよりも楽しそうだ」

モモコは、ゴーストたちに囲まれているのに、怖いどころかとてもワクワクするような、うれしいような気持ちがおなかの底から湧いてくるのでした。

「けんかしたり落ち込んだりすることもあるけれど、われわれも基本的にはお嬢さんたちとおんなじように、愉快に暮らしているだけですからな」

ゴーストの世界もすてきだ、とモモコが思ったそのときでした。

「うわあああああ」

ランディの叫び声がしたかと思うと、ぽてぽてと大股で走ってきて、モモコの足にしがみつきました。

「モモコ、たいへんだ、この人たちみんなおばけだ!」

そう言って顔をうずめてぶるぶる震えています。

やれやれ、というように呆れ顔を浮かべているおじさんたちをを見て、モモコはついぷっと笑ってしまいました。

「ちがうよランディ、この人たちは“ゴースト”なの」

ランディは、どうちがうのかわからないというような困惑した顔でモモコを見上げて、首をかしげました。

その表情があまりにもおかしくて、モモコもゴーストたちも、声を上げて笑いました。

「まあまあ、お天気がよくなるまではどうぞごゆっくり。なんのおかまいもできませんがね」

モモコは、にぎわうパーティーの様子を眺めながら、さっき聞いた話をランディに語って聞かせました。隣には、女の子のゴーストもいました。

「なあんだ、そんなことならぼくちっとも怖くないよ」

ランディは、さっきまでぶるぶる怯えていたことの照れ隠しをするみたいに、わざと涼しい顔でそう言いました。

「考えてみたら、あっち側でもこっち側でも、おんなじ人間なんだから、急に怖くなることなんてないのにね」

愉快なゴーストたちを見ながらモモコがつぶやくと、女の子のゴーストは

「そうそう!」

と強くうなずきました。

「足だってあるし、おなかだって空くし。それに、わたしから見ればあなたたちの方が透けて見えてるのよ」

「ええっ、そうなんだ!」

「どっちがいいも悪いもないの。お互いさまなのよ」

そう言って女の子は、少し照れたように笑いました。

「だからその・・・わたしたちがお友達になることも、できないことじゃあないって思わない?」

モモコはその言葉がうれしくって、

「そう思う!」

と言って、右手を差し出しました。

女の子が重ねた透明な右手に、触れることはできません。それでもモモコは、そこにたしかな体温を感じた気がしました。


その日から1ヶ月も経たないうちに、すずらん荘は取り壊されました。

またみんなに会いに行こうと訪れたモモコが見たのは、巨大なクレーンが2台、円錐のかわいい屋根をかぶりつくように削り取っているところでした。

みんな、無事だろうか。どこかにお引っ越し、できたかな。

半袖には少し肌寒い秋を伝える風が、モモコをよけい切なくさせました。

それ以来、彼らの姿をモモコは見ていません。

それでも、路地裏で、駐車場で、季節外れのすずらんの香りが鼻をかすめて、モモコはときどき振り返ることがあります。

きっと同じようにこちらを振り返っているあの子の体温を、風の中に感じながら。

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