見出し画像

管理するって誰のため?

Hundreds Colorsです。
いつものルートをジョギングしていたら、お気に入りの公園でこんな貼り紙を見つけた。
今回のキーワードは「管理へのご理解とご協力のほどよろしく」である。
現場レベルまで下げた話として、モヤモヤ考えた。

仕事の場面でないから最初は「ほへーっ」と思って通り過ぎそうになったが、もう一度見てみようと戻ってしまった。
もし真面目な仕事の場面ならどう考えるかを想像した。

画像1

管理って何だ?

「管理」という言葉。
もちろん意味はわかるが、やっぱり私には違和感がある。
Administration とManagement のどちらなのかな?と、仕事柄どうしても考えてしまう。

それと、管理って言うのはいいが、
誰のための管理なのか?
真に何のための管理なのか?

本当に顧客の安全のためなのか?
それとも、管理会社側の論理で予想もしない事故や怪我を防ぎたいのか?

危険って、本気か?(管理者の論理)

よくある一般論である。
しっかりと成果を出したい思う時、何かが理由で撤退したり、中止したりすることを検討する場面に直面することがある。

「それ、どこまで本気で本当か?!?(・_・;?」
とついつい相手に確認したくなる時がよくある。

文脈は書かないが、仮に「お客さんに迷惑がかかるから」という日本語が飛び交うやりとりを聞いたとしたら、大人としてその気持ちは一定量は察する。

しかしながら、管理が持つ文脈を見過ごすことはできないから、「ところでどんなことが本当にお客さんに迷惑になるんだろう?」というように、少しだけ、突っ込んだ質問をするようにしている。
この質問の意図は、いつの間にか論点が「やらなくていい理由」「できない理由」になっていないことを共通認識として持つためである。

写真のような貼り紙をみたとき、夏みかんがどれだけの高さから落下すると、そんなに危険なのか?と考えても、あまり現実的な危険は感じられない。
そもそも夏みかんって、そんなに簡単に木から落ちないし。
仮に、木から収穫しようとしたら、ねじったりして、結構な力が必要なわけで。
要は、発生する危険の可能性はゼロではないが、熟した夏みかんが落ちてくる時に、誰かがいる確率は極めて低いと思うのだ。

管理者の論理が見ているのは、ある程度全体を捉えているから、全体を公共のものとして維持または進化させる意味合いが強いと思う。

私は公園のファンである(顧客の論理)

次に、顧客の論理を想像しよう。

夏みかんの危険性を考える一方で、私はこの公園のファンである。
私は本当に大好きなのだ。
目に見えることではないから、表現が難しいのだけど、「気がいい」と思うのだ。
そして、「公園」って言う僕にとっては第4の大切なエネルギーチャージさせてもらえる場所である。
 ※家でもないし、図書館でもないし、カフェでもないし。。。

公園は、極端に言うと他人が集ってくるとても不思議な場所である。
別に、近くにいる人と話すわけでもなく、挨拶するわけでもなく。
敷物を広げたら、公共の場所がなぜかその面積はあたかも自分の安全地帯のような安心感すら持ってしまう。

木々や水辺からのエネルギーって絶対にあると信じる方だから、折りたたみ椅子を広げて「ぼーっ」として日光浴したり、本を読んだり、ノートにむにゃむにゃと思い浮かんだことを絵にしてみたり。。。

公園を訪れるお客さんからすると、そうしたエネルギーを与えてくれる木が諸般の事情で形が変わることを残念に感じてしまう。

当然ながら、顧客の論理は自分の主観を土台にして物事を考えることになることが多いと思う。

【考えたこと】管理者の論理が顧客の論理よりも優先される時

ちょっと待てよ、と考えた。
管理側の責任論と危険が発生する確率の話は、企業の中でもよく聞こえてくる話ではないだろうか?

私は、それって「企業の論理?」「お客さんの論理?」のどちらで話しているのかをやんわりと確認することにしている。
(いたって正しい質問であると思っているが、タイミングと確認の量は要注意である。)

なぜかと言うと、「みんなは良かれと思ってその任務を果たそうとしている」ことはひしひしと感じるから。しかし、何かが違うと感じる。
何かの周波数が合っていないような気がするのである。
隠れている前提は何なのだろうか?
私は、基本的にHuman Resrouceの仕事をしているときは、「性善説」で対話をするようにしている。

だいたい、対話を通して色々な方の考えを1枚1枚重ねてみると次のようなことが見えることがある。

正しいのだ、その人にとっては。
たぶん、本人にとっては美しいことなのだ!

だからこそ、何かを良くしようと考える時に、それがadministrationとしての管理なのか、managementとしての調整なのかを認識することは結構大きなポイントと考えている。

そうすれば、色々な企業において、「話が伝わらない!イライラ!」は少しは少なくなる気もする。
また、よくある一般論として「管理するのが仕事なのだー」と言う感じの日本語が聞こえてきても、「まじっすか?」と感じることも少しは減ってくる気もする。

要は同じ目的を持ち、同じようなところを見ていても、何か対話のポイントがズレたと感じる時には、特に言葉に出さない思い込みや前提があるかもしれないというようにアングルを変えてみるのも結構大切だったりする。

このズレに気づいているのに、何も発言しないのは「傍観者」に片足を突っ込んでいるようなもの。発言するときは、時とタイミングは選ぶ必要なあるけどね!

最近は、コミュニケーションスタイルの違いについて考えることが増えた。そこで、「YES & これは、ちょうどいい!」ととらえてみて、みんなが「よし、やったろう〜」と言う第3の目的を考え出す時間を大切にしている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?