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白衣に憧れて、天職“料理人”へ(後編) 対談者:ハウステンボスホテルズ 総料理長 上柿元 勝様

こんにちは!ヒューマングループnote編集担当 朝永です(*^-^*)

今回は、先週掲載したハウステンボスホテルズ 総料理長である上柿元 勝様とのトーク後編です。

前半では上柿元様の生い立ちやフランスに留学されるまでの道のりをお話していただきました!そして後編では、フランスでの様々な体験やハウステンボスに来られたきっかけをお伺いしました。

まだ前編を読んでいない!後編の前に読み返したい!という方は、下記のリンクからチェックしてくださいね♪


※対談の本文は、2004年3月にヒューマンニュースレターに掲載したトークを当時の文章で掲載いたします。


「白衣に憧れて、天職“料理人”へ」

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<ヒューマンニュースレターVOL.18(2004年3月発行)より転載>

ハウステンボスホテルズ 総料理長 上柿元 勝 様
ヒューマングループ 代表取締役 内海 和憲

 調理学校を卒業後、大阪の洋食店で見習いとして働いた上柿元様は24歳でいよいよフランスに留学します。

内海:いろんなご苦労をされながら、いよいよフランスへ旅立つことになられたのですね。

上柿元:そうです。24歳になった時にフランスに旅立ち、いろいろな体験をしました。

内海:やはり想像以上の苦労をされましたか?

上柿元:はい、仕事がなかったのです。でも親には仕事が無いとは言えませんでしたので「仕事は大変です。フランス料理は美味しいです。パリジェンヌは綺麗です。父さんも母さんも心配せずに体に気をつけて頑張ってください。」と手紙を書いていました。

所持金32万円のうち24万円は帰りの航空券代としてとっておき、残りの8万円を生活費にと考えていました。生活をするために仕事を探すけれどもまったくありませんでした。毎日毎日レストランの調理場に行って働いているスタッフに「私は日本人で、料理人です。ここで働きたいのです。」と一生懸命に伝えました。そうすると、必ず「ワーキングビザ(労働許可証)を持っていますか?」と聞かれるので、正直に「NON(ノン)」と応えると先方は不法滞在者だと思い、必ず「NON」と言われました。毎回門前払い、その繰り返しでしたが、懸命に仕事を探しました。でも日に日にお金は無くなるし、食べ物は無いし、仕舞いには日本に帰るためのお金に手をつけないといけないし・・・。

断られて振り出しに戻るたび、「俺のフランス料理の夢はもう叶えられないのではないか」と悲しくなりました。私は原点に戻るときは空を見るようにしています。子供の頃に見た青空を思い出すとほっとするのです。この空を田舎の両親や家族も見ているのかなぁ~と思い、ここで負けたらいけない!と・・・立ち上がるのです。食事はフランスバケッドを7等分に切って、切ったパンをカフェオレにつけて食べる。これを1日1食で過ごしていました。フランス料理の修業よりもいかにフランスで生きていくかという状態でしたね。帰れない、仕事が無い、知り合いもいない。観光で来ている日本人が懐かしくて、声をかけたりするのですが、完全に皆に無視されました。どうやら添乗員が「現地で声掛けられても一切無視してください」と事前に言っていたらしいのです。「俺は何も悪いことしていないのになぁ・・・」と思いましたね。

内海:海外で仕事を探すということは本当に大変なことなのですね。

上柿元:はい、大変です。生きる為に毎日仕事を探して、やっとレストラン「ル・デュック」という店のオーナー、ミンケリン氏に雇ってもらいました。

内海:ついに夢を叶える第一歩を踏み出されたのですね。

上柿元:その店には、大きな薩摩焼きの壷が置いてありました。ミンケリン氏の父親がマルセーユと横浜の外国航路に乗っていて、横浜の骨董屋で買った美術品でした。「その壷は俺の故郷の壷だ」と言うと、ミンケリン氏は、「この薩摩焼きの値段はいくらだ?」と聞いてきました。ところが、私はその言葉がよく理解出来ずに、「給料はいくらほしいのか?」と聞かれていると大きな勘違いをし、フランス語で1500フラン(1974年当時、1フラン=約60円)と答えたのです。

そうするとミンケリン氏が「俺の壷はそんなに安くないんだ!!」と怒ってしまったにもかかわらず、私は「ただここで働きたいんです。」と日本語と英語とチンプンカンプンのフランス語でひたすらお願いをしました。

内海:問題の労働許可証について、質問はされましたか?

上柿元:はい、案の定聞かれました。その頃私は食べる物が無くてやせ細り、栄養失調寸前になっておりました。ミンケリン氏に「労働許可証は持っているのか?」と聞かれ、ついつい「ウイ」と言ってしまったのです。ここで「NON(ノン)」と言えばまた追い出されるから・・・。「ウイ」と2回も言いましたよ。「ウイ、ウイ」と酔っ払ったみたいでしたよ(笑)。でも自信なさそうに答えた私に不安を感じたのか、もう一度聞いてきたのです。今度は「ウイ」と顔を見て答えました。そうしたら「明日から店に来てくれ。」と・・・。ミンケリン氏は私の恩人ですね。

内海:食べるためにはつきたくない嘘も必要だったのですね。

上柿元:嘘を言うことはよくないことですが、人間が生きる為についた嘘も自分を救ってくれたなぁと思うんです。ただその嘘が原因で仕事を首になりたくなかったんですね。クビになれば、次の日からまたご飯がたべられない、お金も無い。だからミンケリン氏がとにかく喜ぶことをしようと思って、朝から晩まで働いて働いて休憩もとらずに働きました。

ところがあまりにも仕事を頑張りすぎて、他のスタッフのジェラシーを買ってイジメにあうこともありました。その時にイジメた人の名前は今でもはっきり覚えていますし、絶対に忘れないですね(笑)。

反対に私の味方でいてくれた人もいました。その中の3人は今でも親しいお付き合いしています。フランス人の本当の友人です。でもその時いじめられたお陰で、私はフランス語をものすごく勉強したのです。今は原書を訳して読み書きし、日常会話には不自由しません。その当時は本当に悔しかったですけどね。

内海:そのままずっとレストラン「ルデュック」でお仕事をされたのですか?

上柿元:パリで頑張り、新設したジュネーブの店に3番手のシェフとして行き、ジュネーブに1年ほどいました。その頃、もっとレベルの高いレストランで働きたいという夢が強くなり、アランシャペル氏(※フランス料理界のダ・ヴィンチと称される今世紀最大の料理人)という世界でも3本の指に入るシェフに弟子入りしたのです。

内海:弟子入りするまで大変だったのでしょうね?

上柿元:ミンケリン氏が紹介状を書いてくれたのですが、2回も断られました。あきらめることなく、3回目に訪れたその日は、ちょうど雨が降っていました。店先で待っていたら、アランシャペル氏のお母さんが「コーヒーでも飲んでいったら?どうせ断られたんでしょ?」とコーヒーを出してくれました。

コーヒーを頂いているときにシャペル氏が現れ、「断ったのに何でしつこく来るんだ?ミンケリン氏の紹介とは聞いているよ、でも私の元で修行したい人はたくさん待っているんだよ。何でここにきたの?」と言う話から、「リヨネーズを学びにきた」と答えたのですが、シャペル氏には、私の発音が悪くてミヨネーズと聞えたようでした。「この600人くらいの小さなミヨネーズという村の料理を学びに来たのか」と大きな勘違いをされたのですが、私はそのまま「はい」と答えました。

それからシャペル氏がいろいろと話を始めてきたので、私は生い立ちや自分の母親の料理が美味しかったこと、自分が何故料理人になりたかったのかなど色々話をしました。すると「来月から様子を見てみる」と言っていただき、弟子入りを認めてもらいました。そのシャペル氏の言葉を噛み締めながらリヨンの駅まで約18キロの道のりを歩いて帰りました。ミンケリン氏は大変喜んでくれました。「良かったね、いつでもここに帰って来ていいよ。」と言ってくれました。

内海:それからはずっとシャペル氏に師事されたのですか?

上柿元:はい、そうです。シャペル氏の修行は大変でしたがたくさんの事を学びました。そこからヴァランスにある三ツ星レストラン「ピック」でも修行しました。その後シャペル氏に呼び戻されて、「今度、神戸にお店を出すから是非やってくれ」というお話をいただきました。

内海:シャペル氏から学ばれたことは?

上柿元:修行中には厳しく叱られたり、「お前は私の弟子ではない、出て行け!」と怒鳴られたこともありました。しかし、料理哲学とか料理人としての心構え、自然へ感謝の気持ち、そういうものをすべてシャペル氏から教えてもらいました。シャペル氏だけでなく、ピック氏からも多くのことを学び、勉強させてもらいました。

シャペル氏とピック氏のお陰で知り合いも多くできましたし、私にとってヨーロッパで過ごした7年半というのは、フランス料理をやっていく上で、フランス料理の技法はもちろん、人間としての形成も学びました。フランス人の文化、ヨーロッパの風土、慣習、そして人種の入り込んだ生活環境、植民地があったカンボジアやベトナム、チュニジア、モロッコ、アルジェリアを受け入れる懐の大きさ、そして自分の信念をある程度形成できたという自身が持てるようになりました。そしてフランスという素晴らしい国に敬意を表すようになりました。

内海:ハウステンボスはどういうきっかけで来られたのですか?

上柿元:1981年神戸での店がスタートして約11年店を守り続け、シャペル氏が亡くなっ た1990年には、沢山のお誘いがありました。バブルの時でしたから、どれも素晴らしい条件でした。でもシャペル氏の魂が1年間はこの神戸の店に宿ると思っていたので、すべてのお誘いをお断りしていました。

その中にたまたま神近義邦氏(※ハウステンボス創始者)の代理の方が見えて、「地球を大切にする街づくり、豊かな自然環境を守り育てることを前提に、環境重視型の街づくりプロジェクトを考えています。その美しい文化都市にあなたの作った美味しい料理を出していただきたい。あなたが来るまで待ってます。」とこう言われたのです。

生まれ故郷の鹿児島と長崎は地が土が繋がっていますし、長崎で自分が持っている信念でフランス料理を作り、地域社会の為に、憧れていた白い制服を着て、九州の良い食材を通じて人に喜びを与えることが出来ると思いました。

内海:その結果、多くの方が総料理長のお料理を目当てに来られていますよね。

上柿元:ありがとうございます。お客様へは心から感謝しています。そしてお客様には平等に接客し、またここへ来たい、食事をしたい、宿泊をしたいと思っていただけるよう真心を込めて、食材に感謝しながら料理を作ります。

内海:お忙しい毎日をお過ごしかと思いますが、何故毎日頑張れるのでしょうか?

上柿元:それは私だけに限らず、いかなる職業であっても自分自身が好きで選んだ仕事は、本当に頑張れる。しかし本当に好きなことや、やりたいことが分らずにもやもやした時期もあると思います。私の場合は18歳~19歳の時期でしたね。でもそれを乗り越えて得た仕事というのは天職で、好きだから今もやっている。

好きな仕事ですから、一日中立って料理をしても疲れない。自分の好きなことをするというのが一番の幸せで、料理人という素晴らしい職業と職場と人との関わりというのが大好きだから、家族も私が料理人であることにプライドを持っていると思います。

内海:料理人がまさに天職だったのですね。

上柿元:そうですね。私は料理人を天職だと思って33年やっていますが、まだまだ駆け出し、これからだな!と思っています。今はちょうど良いベースが出来たから今からが面白くなるのではないかと思っています。

内海:これからの抱負を教えていただきますか?

上柿元:新生ハウステンボスでこれから私ができることは、地球の環境を考えながら、地元の食材を使った料理でお客さんに喜んでいただき、ホテル内の文化を創造していくクリエイティブな業務をしていくことだと思っています。

各地からお客様が来られますが、修学旅行の生徒さんに、「結婚式はハウステンボスでしてよね」って言ってたりすると、その後尋ねて来てくれたりするとすごく嬉しいのです。「シェフ!4年ぶりです。大学に入りました!!」とか言ってくれるのです。
私は人との出会いもとても大切にしています。出会った人すべてが私の財産です。皆様のおかげで仕事をさせていただいているのです。これまで以上に人のため、地域社会のために心豊かに頑張りたいと思います。


〇上柿元 勝 様プロフィール 昭和25年生まれ
故アランシャペル氏弟子
ハウステンボスホテルズ総料理長
フランス共和国農事功労章シュヴァリエ勲章受章
アカデミー・クィネール・ド・フランス会員 1993
メートル・ド・クィズィーヌ・ド・フランス名誉会員 1999
オーギュスト・エスコフィエ協会理事

〇おもな著書 フランス料理のスピリッツ 柴田書店出版
ハウステンボスのおいしい休日、シェフが贈るフランス料理のメッセージ 柴田書店
総料理長の四季 料理王国出版


朝永のつぶやき

最後まで読んでいただきありがとうございます!ここからは、トークを読んだプチ感想コーナーです(^o^)/

今回は前編・後編を通して上柿元様が生い立ちからフランス留学、ハウステンボスの総料理長になるまでをお伺いしました!

今回のトークを読んでいると、夢を叶えるために様々な経験や苦労を乗り越えられてきた姿が浮かんできて、なんだか胸が熱くなりました・・・!!

上柿元様にとって、料理人はまさに天職ですね!

お話の最後にでてきた「皆さまのおかげで仕事をさせていただいている」という言葉。

この言葉を読んで、見てくれている・必要としてくれている方がいるからこそ自分の仕事が成り立っているんだと気付かされました。

好きな仕事でたくさんの方のお役に立てる、誰かの心に残ることができるというのはとても幸せなことですよね(*^-^*)

日々感謝の気持ちをもって、仕事を頑張ろう!と思いました♪


それでは今回はこの辺で。また次回お会いしましょう!


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