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ソーシャルワーカーという言葉の解放活動を始めます。

ソーシャルワーカーという言葉を、国家資格と制度上の専門職のくびきから解放する運動を始めた。

ソーシャルワーカーとは、目の前のひとりに心を寄せて社会システムを機能させたり、システムそのものに働きかける人のことだ。

ソーシャルワーカーは、誰かのために、社会を縦横無尽に駆け巡り、システムを詰まりや綻びを取り除き、必要とあらばつくり変えていく。声なき声に耳をすまし、優しい対話の場をつくり、つながりを創造し、人の力で人を救っていく。

資本主義の貨幣経済は、どうしても人と人を分断する。資本家と労働者をわける。なにもかもが商材となり、商品やサービスを提供する側と購入する側にわける。お金があって買える人と、なくて買えない人にわける。そこには、自然に実っているりんごを協力しあってもぎとり、分け合って食べていた人間集団の姿はない。

ソーシャルワーカーは、その分断を和らげる。人間なら当たり前に持っているはずのふつうの優しさをもって、人と人をつなげなおす。とても抽象的だけれど、本来はそういう仕事だ。

だから、ソーシャルワーカーは、医療・福祉・教育という限られた業界の中で職能とサービスの提供権が保証された人には限らない。特定のサービスを"する"ことを指すDoingの肩書きではなく、つながりあって助けあうことをふつうとする人間のありようを志して社会に働きかけているBeingの肩書きであってほしいのだ。

人と人が助け合える、人が人であれる会社や職場、顧客との関係性のあるところには、資格を持たないソーシャルワーカーがいる。資格の有無にかかわらず、その場にいて、小社会を紡ぎ出せる人のことを、私たちはソーシャルワーカーと呼び、ひな壇に上がってもらい、学生や若者が憧れる存在になってもらう。

なぜ、そんなことをするのかといえば、beingのソーシャルワーカーが増えると社会がより寛容で生きやすい場所になると思うからだ。

本当は儲け至上主義の世界になど出ていきたくない学生にとって、明るい選択肢になると思うからだ。

日本社会は、未曾有の人口減少時代に突入した。資本主義の貨幣経済は人々を分断してきたが、全体が大きくなっているうちはまだよかった。分断された状態で全体が小さくなるとどうなるか。加えて、情報過多による価値観の多様化で共同幻想が成立しづらい。ふたつの道は「ひとりぼっち」に帰結する。人間にとって寂しさは猛毒なのにもかかわらず、いや、だからなのか、孤独死が深刻化している。


誰がこんな、荒涼とした世界を望んだだろうか。みんな死ぬまで幸せに生きたいはずではないのか。

みんなが同じような幸せを望み、右へ倣えの経済成長でそれが実現してきた時代があった。そのときに機能していた大規模中央集権型の社会システムはもう、社会全体の幸福の総量を増やしてくれない。誰もに必要なインフラである電力や食料の供給システムでさえ、地域に合わせた小規模分散型が模索され始めているのだから、ひとりひとりの「幸せ」を目的にするならますます、これまでの正解は通用しない。

大規模中央集権型に取って代わる、ひとりひとりが自分のまわりに豊かな関係性を紡ぎだす小規模分散型の多中心社会システムが必要だ。それを実践するのが、ソーシャルワーカーなのだと思う。

大きな議場で二項対立をつくって議論するよりも、小さな輪で当事者どうしが対話して決めた方がいいことが増えていくこれからの社会。その輪の中には、多様な人々が対話に参加できるように働くソーシャルワーカーが必要だ。

そんな存在、そんな仕事って、とても素敵ではないだろうか。

この活動は、厚生労働省の補助を受けて始まっている。事業名は、味気ないのであえて書かない。よのなかに対する近い感度を持つかたがたにお声がけいただき、誰に何をどう伝えるのかを、ここ数ヶ月かなりのマインドシェアを使い、対話を重ねながら探ってきた。そうして生まれたのが、この文章とSOCIAL WORKERS LABという名前と活動体だ。まだ探りきれていないけれども、ぼんやりとした「伝えたい相手」の輪郭をより鮮明にするために、イベントを開催する。伝えたいことを体現しているかたがたにご登壇いただき、何をどう伝えるかの文脈を豊かに耕す。


来年度以降は、beingのソーシャルワーカー体現者のかたがたのストーリーをWEBメディアに集めて発信していく。

ソーシャルワーカーに興味を持つ学生や若者と、体現者のかたがたとの出会いの場やともに働けるプロジェクト型インターンシップの機会も提供する。

トップの写真に写っている3歳の甥っ子は、2016年生まれだ。彼が生きていくこれからの社会が、やさしいふつうがそこらじゅうに、ふんだんにばらまかれた社会であるように。




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