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拡張家族Ciftとは、なにか。

もうすぐCiftに入って2年になる。今のわたしの、東京での暮らしの場であり心の基盤になりつつある存在。Ciftとは、拡張家族というコンセプトで意識と生活の場を共有する人間集団のことで、物件の管理者や卒業したメンバーも入れると関係者はざっくり100名ほどだ。

Ciftは、2018年5月に新築されたSHIBUYA CASTの13階から新しい価値観を発信したい東急電鉄に、コミュニティ思想家(わたしが勝手にそう呼んでるだけです)でコンサルタントの2人が拡張家族というコンセプトを提案したところから始まった。

当初は合わせて100の肩書きを持つ40人のクリエイターが19部屋を共有するという立て付けだったが、ある程度かたちになったところで拠点も人数も拡張する方向へと舵をきった。そうして今は、冒頭に書いた規模へと成長し、毎月何人かが新たにjoinしてくれている。NHKのお正月番組や、最近では読売新聞に特大の記事が出たり、雑誌や各種メディアでも数え切れないほど取り上げられている。

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「縮む家族 増える未婚 新しいつながり 暮らし方多様に」
読売新聞 令和2年

拡張家族という言葉が一般名詞のように使われるようになってきてもいる。

「家族とソロとを分断しない、互いにつながる拡張家族とは?」著者 : 荒川和久さん : 博報堂ソロ活動系男子研究プロジェクト・リーダー

1番はじめに、わたしをCiftに連れていったのは、リクルート時代の同僚でSUUMOリフォーム編集長の福澤佳恵だ。彼女は、わたしが若気のいたりで「日本の食料自給率が低すぎる。輸入が止まったら畑という畑を芋ばかりにしてかろうじてカロリーが足りるぐらいだ。これはよくない。わたしは村をつくる」と言ってリクルートを辞めたことを面白がりながら覚えていてくれた。そして、「あやが絶対好きそうなところがあるから一緒に行こう」と、Ciftでたまに開催されていた、ごちゃまぜごはん会に誘ってくれたのだ。

渋谷のど真ん中。ファサードにライゾマティクスのアートを配したピカピカにおしゃれなビル。裏手の一番奥にあるレジデンスへの入り口には「CAST APARTMENT」というおしゃれなサインがあった。この時点で、まったく興味がわかない。というよりもむしろ、こういうところ苦手なんだよな、と青山の築40年超の渋いワンルームマンションでひとり静かに暮らしていたわたしは思った。どうせ、おしゃれメガネをかけた今風の人たちが、コミュニティがなんちゃらとかいって、キャッキャしてるんだろうと思った。(これは実に、今現在、WeWorkに対して持っているイメージと近い。知らんけど。)コミュニティなめんなよ。コミュニティは大変なんだぞ、と、沖縄の離島で濃厚な地縁血縁コミュニティを経験した観点から、思っていたのだ。

ごはん会じたいは楽しくて、気持ちよくお酒を飲んで会話を楽しんだけれど、参加していたのはほとんどががCiftに興味を持つCift以外の人だったし、コモンダイニングの目立つところに置かれた初期メンバーの写真と肩書きの書かれたプレートがとっても選民的に見えたことをよく覚えている。

「メンバーのほとんどが個室に鍵をかけていない」とか「メンバーのひとりが持っている1番いい洗濯機をみんなで共有している」という話が、本当に沖縄の小離島みたいで、渋谷のど真ん中という立地とのギャップがおもしろいなと思った。でもやっぱり都会的すぎて、わたしはこれじゃないけど、とも。そして夜は更け、何人かとfacebookでつながって帰宅した。「こんなところがあるんだな、以上。」想定では、それっきりになるはずだった。

その後、たまたまfacebookで鎌倉に住みたいとつぶやいたら、facebookでつながっていた、先ほどのコンサルタントのひとりである近藤ナオがそれを見つけ、「Ciftが鎌倉にできるよ」とコメントした。鎌倉に反応したわたしは、2018年3月1日、もうひとりの藤代健介と面談をすることになった。

そして、その日のうちに鎌倉ではなくSHIBUYA CASTへの入居が決まり、その週のうちに東急リバブルに申込書を提出し、約1ヵ月後には入居していた。コンセプト立案者の健介と話したら彼の話が素晴らしく、Ciftの理念に共感してぜひとも入りたいと思ったのだ。

、、、、、、、、という話なら、美しいのだが、そんなことならわたしはこの文章を書いていない。

実のところ、わたしは当時、人生が全体的にコンディションが悪く、その日は特に、自己否定と弱気の極みにいた。健介はそこに初対面だというのにズカズカと踏み込んできた。しかも、上から。「くすぶってる」とか、随分と失礼なこともたくさん言われたような気がする。実際問題、今と比べるとくすぶっていましたけれども、そうは認めたくないものですよね。

健介のほうは、初めてCiftを抜けてしまった1人のあとに入る4人のシェア部屋のあと1人を見つけたかった。そのために、初期メンバーを集めたときと同様にいろいろな人と面談を繰り返していた。そこに登場したのが、近藤ナオが紹介してきたくすぶってるわたしであった。

数時間の面談のあと、結局、健介に引っ張られてその場でCiftに入ることに決めたのは、一言でいうとやけくそだった。じめじめした状態でカラッとしたキラキラ集団に入るのは気後れするし、お金もかかるし、生活を変えるのは大変だし。決して、心地よくない選択だった。何より、わたしにとって「家族」は、無意識に向き合うのを回避している言葉だ。わたしにとっての家族は「あれしろ、これしろ」「あれはするな」「あなたはこうです」と価値観を押し付けてくる抑圧的な存在なので、わざわざその言葉を冠した人間集団に入るなんて、ぜんぜん合理的じゃない。

その日の決断を、何度も後悔した。30万円近い初期費用を振り込む最後の最後まで、シェアメイトの3人に「ごめんなさい。やっぱり入るのやめます」と言おうかと逡巡していた。わたし鎌倉で楽しく暮らしてみたかっただけなのに、なんでこんなことになっているんだろうと、運命と流されやすい自分の性格を呪いさえした。

それから2年経ち、Ciftという存在は、少しずつでも確実に、わたしにとってすばらしいものになっていっている。最近、とみにそう思う。最初の気持ちとのギャップがすごい。もっと言えば、気持ち的になかなか馴染めなかった。渋谷CASTに家賃を払うのが嫌になり、ついには部屋からの脱退を申し出たことも一度ではない。それが、様変わりした。おもしろいから言語化してみようと思ってこの文章を書き始めた。タイトルの「拡張家族Ciftとは何か?」は、だから、わたし個人の観点からCiftを論じる意図のあらわれだ。

ひとまず、Ciftはわたしにとって、何がすばらしいのかを列挙してみる。

1. 「自立」と「刑法に抵触しないこと」しか条件がない。
じゃあ、自立ってなんなのかの定義は難しい。自分で稼いだお金で保険や税金や家賃や食費が払える経済的自立はわかりやすいにしても、Ciftで語られる自立はそれだけではない。Ciftという人間集団は、特定の属性や趣味嗜好に依拠していない。特定の思想的リーダーがいるわけでもない。精神的に自立していないため同化できる対象を期待して興味を持った人は、入らなかったりする。その対象が、ないからだ。大げさな言い方をすれば、自立とは、自分の中に神を持つことなのかもしれない。かといって、自分の正義に依存している人は、正義に反するが起きたときに対話ができず、嫌になって離れていった。自分の正義に依存しない自立のために、自己変容が問われる。つまり、自立した人とは、自分の中に神を持つだけでなく、その神を磨き続けている人ということなのかもしれない。

2. いる人ひとりずつを好きになってきた。
そういえば、1に書いたような人が、わたしは好きだ。だから、結果的にCiftのメンバーに関しては、どうやら一緒に過ごせば好きになるようだ。世の中に好きな人が増えていくことは幸せだ。

3. 好きになる入り口で、家族というパワーワードと、みんな自分で選んでCiftにいるという自己決定と相互認知が効く。
わたしは基本的に他者への警戒心が強いが、好奇心がそれ以上に強い。大変に矛盾しているけれど、好奇心のアンテナがキャッチしたクセの強い人に自分から近づいて行ったり、近づかれて抗えなかったりしたことで、たびたび事故が起きてきた。だから警戒心は強まるばかりで、人を好きになるハードルはどんどん上がっていく。Ciftにいる人は自分の中に神を持っているので、皆わりとクセが強いのだが、入ってから今のところは事故は起きていない。厳密にいうと約1名、入る前に追突事故を起こしてきた人がいたけど、入ってからは起きていない。それは、もちろんみんなが素敵な人だということもあるのだけれど、家族という一度なったら変わらない永遠性をまとったワードに、みんなが自分の意思で納得して入っていて、そのことをお互いに認知している状態があることも影響しているのではないかと思う。下世話な言葉だが、やり逃げできない、とでも言おうか。

4. 予定しなくても、仕事を離れて、好きな誰かと会えたり一緒にごはんを食べられる環境ってすばらしい。
生活空間を共にしているという物理的な側面は大きい。

5. お仕事モードもオフモードも両方見せてくれて、自分も安心して見せられる人たちがまわりにいるってすばらしい。
これは説明がいらないのではないかと思う。

6. 責任が分散している。
誰も誰にも何も強要しない。でも、助けてほしい時に声をあげると誰かが助けてくれる。それは、家族を支える責任が薄く広く分散しているからだ。

Ciftは経済的な依存関係を基盤にしない家族という言い方もできる。地縁血縁にも。だから実際、拡張家族と平行して意識家族という言い方も健介によってはじめから用意されていた。

よのなか、経済力のある男性から先に結婚していく。それから、会社が倒産して家族が離れていくという、よくあるコンテクストがある。わたしはこれらが、ずっと疑問だった。家族って、結局は経済的なつながりなのか、と。また、このコンテクストの下敷きには、男が外で稼いで妻が家庭で子を産み育て、家督は長男が継ぐという家父長制モデルがある。それが不自由で大嫌いだ。

つまり、わたしにとってCiftとは、お金じゃなくて心でつながっていることを信じられて、特定の役割を誰にも押し付けない、心地いい家族だ。

今まで、少なくともわたしの人生になかった存在だし、ひょっとしたらよのなかにもなかったのではないかと思う。

Ciftの社会的存在意義については、マスメディアやリンクを貼った記事をはじめ、いろいろなところで語られている。そういうメタな話もいいけれど、当事者として今、目の前にある幸せを語ってみたくなった。語ってみたくなった気持ちは、家族のひとりである石山アンジュがこの記事に書いたこの文章に近い。


もし今この瞬間、「家族」という社会的枠組みや常識に縛られ、辛い思いをしている人がいるとするなら、本来は大切であるはずのものが、そう思えなくなっている人がいるとするなら、このCiftでの生活が、少しでもそれを解き放つ力になれたらいいな。そう思っています。

Ciftという世界観の一部になって、私自身の内面が大きく変容している。

みなさま、どんな大晦日をお過ごしでしょうか。
浅倉はじっくりと内省の時間をとらせていただき、私的なパラダイムシフトに確信を深めています。
数日前に、リクルートを辞めてから12年の流れが終わったと書きましたが、それはこれまでの12年が
ひとり>チーム 
個人的直観>集団的熟慮 
行動>話し合い 
即時的>長期展望 
ぜんぶ実験>戦略的に進める
他者や状況に依存>意図をもって行動する
という優先順位だたところから、不等号が逆になったシフトです。

今年の春頃、すでに価値観が変わり、前の価値観でつくりあげてきた人生の骨組みが魂の抜け殻の廃墟のように感じられて辛い日々を過ごしていました。その後、意識を変えて始めた行動が、年末の今、パラダイムシフトと自信を持って言える状態を導き出してくれました。

ひとり大好き、自由と背中合わせの孤独上等だったのですが、パラダイムシフトにより一転してすっかり寂しがり屋になりました。これからは、まわりにいるかたがたにもっと甘えようと思いますので、どうかよろしくお願いします。
(2019年大晦日)

この変化はいい変化で、Ciftに入らなければ起こり得なかったと確信している。また、入ってすぐではなく、日々を積み重ね、Ciftという拡張家族との間に安心できる関係性が構築されていった先に起きたことだと思う。

他のみんなはどんな風に思っているんだろう。それぞれにとってのCiftってどんなものだろう。誰かがきっと、書いてくれたらいいなと思いながら、ひとまず筆を置く。

感謝。





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