200806 禁断の恋についての気付き

禁断の恋が美しいのは、フィクションの中だけだ。

テレビ放送時に飛び飛びで視聴していた「中学聖日記」を一気見して、大泣きしながら気付いた。美しくて、グロテスクだ。現実に近くでこんなことがあったら、きっと感動しない。恐ろしいとさえ感じるだろう。


少女漫画畑で育ったわたしにとって「先生と生徒」の恋は、数え切れないほど触れた物語の一つだ。学生だった頃、自分も多くの主人公と同じように「先生」に憧れ、恋をしたものである。


漫画やドラマや映画を観て、一緒になって泣いたり笑ったりできるのは、どんな結果になっても、それがフィクションだから。今はそんなフィクションの中でさえ、「禁断の恋」が纏うグロテスクさに気が付いてしまうようになった。



高校生の頃、学校に '元教え子と結婚した先生' がいた。恐らくご結婚から20年近く経っている話なのに、カースト下位層・噂話やその手の情報からは縁遠いわたしでさえ当たり前のように知っていた。

フィクションの中では応援できるのに、人生で何度かあった '友達から不倫話を聞く' 時、途端にどんな風に接していいか分からなくなって、結局全員と距離を置いてしまった。


基本的に、みんな自由に生きたらいいと思っているのに、現実世界で「禁断の恋」に鉢合わせるのは、全然素敵じゃない。


当時も、自分は先生に恋をしながら、「実際に教え子と結婚に至った先生」には引いていたのだ。大人側になってしまった今は「先生と生徒の恋」を当然のように問題視してしまうし、「不倫」をしている人には関わりたくない。全く筋が通っていないが、心の反射なのでコントロールもできない。


フィクションの枠の中に入って、ようやく「禁断の恋」は美しく輝く。作り話だから安心して、感動したり応援したりできる。片想いで、現実にならないから、現実になった人を軽蔑しながらでも、恋を続けられる。

みんな自由にしたらいいと思うのに、自由にされていいのは全く自分に影響がない場合だけだ。そう気付いて、少し落ち込んだ。


どんなことも自由に選択できたらいい。自分で決められたらいい。

なのに、人はどう頑張ってもひとりでは生きていけない。どんなに自由で自立しているようでも、一連のネックレスのように誰かと繋がって成り立っている。


フィクションはネックレスを途中で切って、その中の一粒か二粒だけを取り出して、美しいと感じる世界。その横にあるバラバラに壊れたネックレスは二度と元には戻らないが、人は美しい画が観たいので問題ない。画の外は、それぞれの好きなように補填されるだけだ。


「禁断の恋」はフィクションという枠でもって、美しく見えるようにトリミングされているのだな。これまでぼんやり眺めていたが、ついに気が付いてしまった。

恋に恋する身としては、大変ショックな出来事である。

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