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にんげん

 にんげんとは中々難しい生き物である。あまりにも難しいので、にんげんをするのをやめたくなる。

 こうも複雑な生き物にさせているのは心の動きも社会生活のなかで考慮しなければならないからなのかと感じる。

 にんげんが行う心の動きの中で最も難しいのは、多分「信じる」ということであろう。

 他人はおろか、自分のこともやや懐疑的になってしまうこともある。

 そもそも信じるということは何事か。辞書で調べてみた。

 大辞林(第3版)によると複数の意味が記載されている。

信ずる(読み)シンズル
① 疑わずに本当だと思い込む。心の中に強く思い込む。 「おのれの-・ずる所に従って行動する」 「サンタクロースを-・じている」  ② 疑うことなく、たよりとする。信頼する。 「 - ・じていた友人に裏切られる」 「わがチームを-・じている」  ③ 神仏などをあがめ尊び、身をまかせる。信仰する。 「仏教を-・じている」 「神を-・ずる人」

 なるほど、心の中に強く思い込む、疑うことなく頼りとする ということがこの語の根本部分であるように見受けられる。

 さて、我々は簡単に信じるーいや正しく言葉を用いるとすれば、信ずるであるがーを日常生活で頻繁に用いる。

 「私を信じて」「自分を信じて頑張ってみなよ」……など。

 ただ、信ずることはそう容易く行えるようなものではない。

 そもそも、この行為は、他人からせがまれて行うものではなく、完全に自発的なものである。さらに言えば、この行為は相手に対して信ずるに値する絶大な根拠が複数個存在するときに限ってのみ成立するものであり、自発的なものがありながらも、互いにその状態にあるということが必要な感じがする。

 しかしながら、にんげんの都合の良い所は、信ずるに値する根拠とみなす基準が人によって変化する相対的なものであるというところである。

 よく知らない人間から、信じてくれと言われても、それは当然のごとく、何故?となるわけだが、関係性の深い人間、例えば恋人や友人から、そのように言われた場合、寛大に振る舞い、信じることができるような不明瞭で変化しやすいものである。

 そこが問題で、その、所謂、寛大さというのは、ある種の諦めであり、それは信じることにはならないのではないかと思い悩むことがある。

 また、「信ずる」という行為には、両者の合意が必要であるという前提に立ち返ってみれば、いつかは、相手が「信ずる」ことをやめてしまうのでは?という恐怖が少なからず生じる。

 その恐怖とは、正確に信じているからこそ湧いてくるもので、その恐怖に苛まれること自体が裏切りであるのではないかと思うと更なる苦しみを味わうことになる。

 要は、信じている ということに対して、その状態がいつまでも担保される何かが欲しいのである、にんげんという生き物は。

 そのために、ひとは、手をつなぎ、抱きしめあい、深く求めあう。

 あるいは、金にすがる、名声を欲しがる。

 あぁ、なんて、にんげんは儚く美しく、そして醜い生き物なのであろうか。

 私はただ、そんな自分であることがただ寂しく哀しいだけなのである。





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北海道で大学生をしている。やりたいこと沢山で進路模索中。no rain no rainbow をモットーに緩くのんびり生きます。