映画『ルックバック』が醜悪を可視化する(感想)
少し前に『上映開始してすぐに泣いちゃう人がいて、気持ちはわかるけど映画体験としてはクソになってしまった』――みたいなツイートがバズってて行きたくなった映画。行きたくなったので行ってきた。
・原作は作者の他の作品も含めて未読
・京アニ事件をきっかけとして書かれたらしい
・作者は小学生の妹のフリをする狂人
前提知識はコレくらいでの視聴だったので、ほぼほぼまっさらな気持ちで楽しめたと思う。
感想を一言でいえば『傑作だけどしんどい』だった。
構成がとても練られていた感あって、1時間で伏線まいて回収して想像の余地も残して無駄がないのがすごすぎたし、あたたかいものが心に残ったりもしたんですけど…
それでも、やっぱつれぇわって感じ。
以下は作品のネタバレを含んだ感想になります。
何でもできると思っていた頃
藤野たちの子供時代が自分が生きてきた時代と重なって、それだけでノスタルジックな気分にさせられた。
そういえば、昔はゲームのシナリオライターになりたかったなーと。
『そういえば』という枕詞をつけないといけないぐらい夢と現実が乖離してしまった自分にとって、藤野はとっても眩しかった。
夢を諦め、おっさんになった自分には毒になりそうな程で――だからこそ、京本の登場で「この子も心を折られるんだ」と思って見ていた。
けど、ライバル視していた京本は藤野の大ファンなのが発覚し、そこから二人三脚になったのは羨ましくも尊くもあった。
このあたりで自分の中にあった藤野への嫉妬は吹き飛んで、二人の活動を見守る後方腕組み彼氏になっていたと思う。
高校での離別は、ベルセルクのガッツとグリフィスを思い出してシリアスになっていた脳がちょっとバグった。
自立していて甘えるのと、甘えているところから自立するのは全く違うワケではあるが、ああ、黄金時代は終わるんだなって。
(グリフィスはクソ)
命の価値に区別なく
大学で事件が起きて、ニュースになって負傷者と死亡者がでたとき。
頼む京本生きててくれ、他の人はどうなってもいいと思ってしまった。
結果的に京本が死んで救いはなく、ものすごい罪悪感に苛まれたわけだが…
なんで、死んだ人を悔やむことも、生き残った人の無事も祝えなかったのだろう。
自分は京アニ事件がこの作品のきっかけだったことを知っていた。
すぐに「あ、これだ」と思い当たったのに。
京本以外の描写されていない学生たちに対して、どうなってもいいと思った自分の感情はマジでクソだと思う。
ルックバックは、なんかそういう、自分の中にある普段は見て見ぬふりをしている生の感情と向き合わされる作品という気がする。
その後の『もしもの世界』では、加害者が描かれるけど、こんなヤツのために京本が犠牲になったの本当にクソだと思ったし、障害者に人権を謳うのだから障害は病気と言い訳せずに平等に裁けよクソッタレと思った。(作中には裁かれなかった描写はないが、叙情酌量の余地とかで正当に裁かれないんだろうなという諦観がある)
藤野が助けにきてくれるIFはあまりにハッピーエンドすぎて救いはないのだが、それがドア下からスサァする四コマ漫画に繋がるので、やっぱり救いなのだと思う。
このIFでは、
・藤野は小学生の頃に京本の絵に敗北し、空手を続けて周囲と楽しくエンジョイしていたが、また夢を追いかけ始めた
・藤野がいなくても京本は自分の足であるくことができた
という、実際にあった二人の共依存じみた関係性を否定するような描写もあるけど、根っこの部分には『小学四年生の頃に藤野が書いていた漫画』があって、根幹は否定しないというのがすごく良かった。
そんな流れのあとに、京本が永遠に藤野の漫画のファンだという事実が発覚し、藤野が再起する流れがグッとくるのさ。
もしも、事件がなくて京本が生きていたら。
絵でなんかでっかい賞とって、藤野が素直におめでとうを言って、二人は仲直りをして。
京本は本業で絵を描く合間に、藤野原作で短編漫画の作画もやったりして。
そんな未来があったんだろうなと考えてしまう。
おわりに
成長した京本が巨乳じゃなかったこと(解釈違い)、7/9現在で入場者特典がもらえずぐやじいいいいってなったコト以外、楽しめる作品でした。
ドア下からのスサァ構図最高です、ありがとうございます。
チェンソーマンの単行本を1部終了までずいぶん前に買ってそのままなので、優先して読み崩そうと思います。
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