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中欧旅行記⑨:アウシュビッツ

2004年に中欧4ヶ国を旅した時の記録です。目次はこちら
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そもそも、なぜポーランドというお世辞にもメジャーとはいえない国に来たかというと、どうしてもアウシュビッツに行きたかったからだ。説明するまでもない、人類の負の遺産。

アウシュビッツまではクラクフ駅前からバスで1時間半ほど。バスはポプラ並木と、その向こうにゆるやかに広がる丘の中を走って行く。アウシュビッツの凄惨なイメージとはかけ離れたのどかな景観が印象的である。

バスで隣に座ったアジア人が声をかけてきた。彼はリーという台湾人で、もう3ヶ月もヨーロッパを旅しているのだという。彼のほうが英語が上手だ。アウシュビッツを一緒に回ることになった。

「働けば自由になる」と掲げられた門から先が収容所の展示となる。押収された鞄、靴、三つ編みのまま刈り取られた髪、それを利用して作られた布。毒殺用に使われた薬品、銃殺用の壁、死のシャワーと焼却炉、幾重にも張り巡らされた有刺鉄線と壁。棒のようになった手足、こちらを見つめる子供たち。極限状態。

人は、かくも残酷になれるものなのか、と考えずにいられない。殺人はもはや作業であり、尊厳、命の重み、苦しみ、罪の意識など微塵もなかったのだろう。

今ぼくは、この平穏無事な日本に暮らしているからこそ、ナチズムは非道である、と言い切れる。ただ、もしその渦中にあったなら、同じ判断が出来たか。判断が出来たところで、それに抗う行動をとれていたか。自問する。

ひとりの人間が、殺す側の組織に属していたか、殺される側のコミュニティにいたのかで、運命が全く異なってしまった。何れの側に属するにしても、哀しいことだと思う。

3時ころ、アウシュビッツ第2収容所、ビルケナウに向かう。写真ではコチラのほうが有名だ。規模はアウシュビッツの倍以上で、広大な平原に無数のバラックが並んでいる。

死の門から線路に沿ってビルケナウに入ると、目の前に広がるバラック群。荒涼とした風景が、ここでの生活を強制された人たちの薄命を思わせる。バラックの壁は木の板一枚、屋根も隙間だらけで、雨風を防げる代物ではない。ここに藁を敷いて、人は身を寄せ合って寝ていたのである。

ビルケナウにも焼却炉があり、そこで焼かれた人の灰は、無造作にも隣の池に捨てられていたという。人の尊厳がどん底まで貶められたこの場所は、自分の中で特に印象深かった。近くに、石碑があった。

To the memory
of the men, women, and children
who fell victim to the Nazi genocide.
Here lie their ashes
May their souls rest in peace.

この場所をたずねて良かった。もしポーランドを訪れる機会があったら、ぜひアウシュビッツを訪れてほしい。ぼくのチープな文面からではなく、自分の感覚で何かを感じてほしいと思う。

1700のバスに乗ってクラクフまで戻る。プラハ行き夜行列車の出発時間近くまで、リーと一緒に「旧市街のマクドナルド」という違和感100%な場所でまったりした。お互い不自由な英語でコミュニケーションに難があったが、それをひっくるめて楽しかった。

夜行列車のコンパートメントは二人用、広くてキレイ。シーツまで用意してくれてあった。ビバ・チェコ国鉄。同い年くらいのアメリカ人と一緒になり、当たり障りのない会話をしておく。

夜中にパスポートコントロールがあった。無事にポーランド出国&チェコ入国。隣のやつは熟睡してて、たたき起こされてた。



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