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日記:ナイモノネダリと他人の価値観

無いものばかり、数えてしまう。

大切な人も、ものも、環境もあるのに、無いものばかりを数えてしまう。

周りと比べる癖のせいだろう。
いろんな人の文章をネットや本で読むことが多いのだけれど、そのような文章では相対的ではないその人だけの絶対的な価値観と哲学が垣間見える。
作品としての文章だから、綺麗に仕上がる(仕上げている)のかもしれないが、その辺の軸がブレブレな今の私が読むとつらくなる。つらくなりながらも、憧れてしまう。自分の絶対的な価値観を持って生きることに。

どのような生活で、どのような働き方で、どのような自分になれれば幸せなのか。自分のそれが私にはまだわからない。
それらを探しながら探りながら生きているのだが、絶対的な価値観がない私のまま、24時間365日のレールに流されるまま毎日を生きるのがすごく苦しくなることがよくある。世界の中でのじぶんの居心地が悪いように感じるのだ。

そしてまた、縋るように人の言葉を探してしまう。人の価値観を読む、聞く。そのどこかに、自分の生き方や夢、好きなことに気づける欠片がある気がして、毎日のように縋っている。

すると今度は、私は私の人生を生きているはずなのに他人の人生が羨ましくて仕方がなくなる。私は私の人生しか生きられないのに。

本当はこのnoteに、こんなつまらない文章を書くつもりなんてなかった。目的をもって、「誰かに届きますように」と祈りながら、エッセイなど書くつもりで、はてなブログから移行したnoteだ。

だから頭のなかがモヤモヤする日でも、無理やり思考を止めてするべきことをしようとした。ごちゃごちゃな頭ではいい文章なんて書けない気がしたから。でもなかなか物事が手に付かない。邪魔な思考が頭をちらつく。気を抜けば虚無感に襲われる。

仕方ないからまた、こうやって文章に残している。タイトルに”日記”と付ければ許されるかなと、そんな回避策を講じないと文章すら書けなくなってしまった。

でも、本来文章を書くのに大それた意味なんてなくていいのだろう。こうやって文章に置いておいて、いずれそうしたくなった時に美しく昇華して曲やエッセイにすればいい。

自分がしんどい時に文章を書くのは、今の私を救うためだ。それ以上でもそれ以下でもない。
そんな文章、価値がないと私は切り捨てたけど、こうやって文字に起こしていないと思考の堂々巡りと無力感で気が狂いそうになる。
このような、自己満みたいな文章に価値がないと言ったのは、私ではなく他人だ。でも、自己満みたいな文章に価値がないと切り捨てたのは、私だ。

他人にとって価値がなくても、自分にとって価値あるものになりうるならそれでいいのだと、常日頃思うようにしているのに実践するのはなかなか難しい。あまり自覚はなかったが、他人の価値観のなかでこれまで生きてきていたのかもしれない。

思考の癖を変えるのは難しいけど、自分が苦しくなるような他人の価値観は、自分の人生からは切り捨てられるようになりたい。

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