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うろくずの姫はひとり心泣く

彼はどうしてもその女の声が欲しかったのだ。
彼は闇夜に紛れて、書院造の建物の中の女を見た。細い指も長い髪も彼は興味がなかった。彼は素晴らしい躯を持っていたからだ。魔女の元に足繁く通ってかき集めた。十の山に君臨する大猿の顔。百の社に祀られる蛇神の尾。千の話に語られる人喰い虎の腕と脚。万の配下を従える大化け狸の腹鼓。
だが声は。声だけは。

あの時魔女は確かに彼に言った。
彼女は…その化け物は、自分の美しい声と引き換えにその脚を得た。いや、借りたのだと。
「あの化け物め、全く珍妙なこともあったもんだよ!人に恋するなんてね…それでお前さん、これが欲しいのかい」
魔女は虹色の霧が封じられた瓶を彼に見せた。思わず彼の喉が鳴った。小鳥の囀りのような音だった。
魔女はそれを笑った。彼は怒りを堪えた。
「ならいつもと同じだ、その女を殺すことだよ…そうすればこれは、あいつの『声』は、お前にくれてやるさ」

ひ弱そうな女だった。今すぐにでも殺せそうだった。…女一人だけなら。
突然鉄が軋むような声がした。彼の声とよく似ていた。彼が苛ついてそちらを睨んだ途端、ひょうふっと何かが飛んで、その音は途絶えた。
ぽとりと彼の目の前に何かが落ちた。矢が一本身体を突き抜けた小鳥だった。彼は忌々しそうにその小鳥を齧り、矢の飛んできた方向を見た。
女の側に、直垂姿の一人の男がいた。
あいつが女を護っている。あいつは強い。


その男は構えた弓を下ろした。
奇妙な鳴き声だった。化け物かと弓を射てみれば、どうやらただの小鳥だったようだ。
そばにいる女が驚いて男を見た。ぱくぱくと口を開いて何か訴えようとした。男は女を優しく宥めた。しかし男の目は氷のように冷たかった。
…化け物どもも、この女を、いや人魚を狙っている。油断はならない。
彼はそう思い、改めて女を見た。
化け物め、貴様の正体は分かっているぞ。
喰えば不死となる人魚の肉、誰にも渡してなるものか。


【続く】

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