雑記

子供の時の好みは親によって作られた好みであり本来の自分ではなかった。
という話はよく聞く。

わかりやすいところだと、「本当は黒いランドセルが良かったけど女の子だったから無条件で赤かった」とか、そういう話。

かくいう私もそういうことがあったなということを大人になってから考える。
本当はこうしたかったのに、親に止められてできなかったと思うことがいくつもある。

ただ「絶対に赤が嫌で黒じゃないと駄目だったのか」と強く聞かれると実は少し口ごもる。
何となく黒い方がいいなと思ったことは覚えているが、
「そのランドセルの形でならどちらかと言えば黒い方が良かっただけで別に黒いランドセルが欲しかったわけではないのではないか」とか
「みんな赤いランドセルを持っていたイメージがあったので単に逆の方が良かっただけでないのか」とか考えてしまう。
さらにうちの親はこう言っていたことを思い出す
「みんなと違うものを持つと目をつけられたりしていじめられるよ」と。
たいていそういわれると、不安をあおられて親の言葉に従ってしまい、あとで黒いランドセルを持っている子を見て羨んだりしたものであった。
だけど、やっぱりその「黒いランドセルの女の子」は偏見の目で見られていた。私の気づかなかったところで嫌がらせなどされていたのかもしれない。
そう考えると「そこまでして持ちたいものであったのか」は疑問の余地がある。

今を基準に考えてしまえば、私は迷わず黒のランドセルを選ぶ。
そして子供の頃そうしたかったとも思う。
でも、実際に子供の頃黒のランドセルを選んでしまっていたらむしろもっと後悔することになっていた気がする。
目をつけられていじめられて、好きだったはずの黒のランドセルが好きじゃなくなって、そして親に「ほら、だから言ったじゃないか。でも新しいのは買わないぞ。自分で選んだんだから」と言われて逆恨みするところまで目に見えている。

私は子供の頃自分で決定することが怖かった。
なんとなくで好きな方にして、その後好きだったものが好きじゃなくなって後悔することが怖かった。
親が決定したことであれば大丈夫だろうと思えた。
それは「感情」や「好み」などといったところにまで及んでいた。

親が「あんたは○○が好きだね」と言えば自分でそれが好きかどうかわかっていなくても「それが好き」なのである。
それは「そのとき好き」ではなくても、「あとで好き」になるのである。
「正解」の選択をした結果として。親の「賛成」や「同意」が得られた結果として。
「本当の好き」を犠牲にしてでも「安心」が欲しかったのだ。

何が「本当の好き」なのか自分ではっきりわかっていなかったし、何より、自分の好きを貫いて人から変な目で見られるのは子供時代の私にはまだ早かった。
対象物に対する知識も全然なかったし、食わず嫌いも沢山あった。
私はその辺を全部無視して自分の感性を信じて好きなものを貫ける子供ではなかったので、
なんでも親に決めてもらってよかったと今では思っている。

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