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第4回「セブン‐イレブン新天地浮島店」

 かつて沖縄は、全国で唯一セブン‐イレブンがない空白地帯だった。そんな沖縄にセブン-イレブンが進出したのは、今から3年前のこと。2019年7月11日、県内各地にオープンした14店舗の中には、まちぐゎーエリアのお店もあった。「セブン‐イレブン新天地浮島店」だ。

 オーナーの角屋隆司さん(55歳)は東京生まれ。お母さんが沖縄・久米島出身だったこともあり、幼い頃から頻繁に沖縄に足を運び、二十歳の頃に沖縄に移り住んだ。

「あの当時はね、沖縄の方は二十歳ぐらいで県外に出るのが多かったんです。私は逆にその年代で沖縄にきたもんですから、『何しにきた?』ってよく言われましたね」。角屋さんは振り返る。バブル景気の真っ只中、東京への一極集中が指摘される時代にあって、東京から沖縄に移り住むというのは今ほど一般的ではなかったという。しばらく親戚の仕事を手伝ったあと、スーパーの店長として働き、その後は新聞販売店を営んでいた。そんなある日、紙面に「セブン-イレブン19年度沖縄進出」という見出しが躍っているのを見つけた。角屋さんは当時、50歳という節目の年を迎えようとしていた。

「新しいことを始めるなら今が最後のチャンスだなって、新聞販売店を経営しながら思っていたんです。ちょうどそのタイミングで『沖縄にセブン‐イレブンが出店する』という話があった。自分はずっと小売りをやってきたということもありますし、初めての出店に関わりたいなという気持ちがふつふつと湧いてきて、オーナー募集説明会に申し込んだんです」

 説明会を経て、角屋さんに提案された出店場所は「国際通り周辺」だった。それまで営んでいた新聞販売店は安謝にあり、国際通りにはあまり馴染みがなかったけれど、真っ先に頭に浮かんできたのは国内外の観光客で賑わう光景だった。でも、担当者に案内された出店予定地は国際通りではなく、アーケードを抜けた先、浮島通り沿いの一角だった。

「実はですね、沖縄に来て間もない頃に、公設市場の近くで叔父の仕事を手伝っていた時期があるんです」と角屋さん。「叔父がやっていたのは化粧品を卸す仕事で、台湾の方が船で乗りつけて、日本の化粧品を買いにくるんです。それをぎゅうぎゅうに箱詰めして、その方たちが借りている民宿まで届けるアルバイトを自分はやっていました」

 角屋さんがアルバイトをしていた時代に比べると、市場界隈の風景は様変わりしていた。新天地市場も閉場し、通りを行き交う人の数も少なくなっているように感じられた。ここでお店を始めて、お客さんは足を運んでくれるのだろうかと、角屋さんは頭を悩ませた。朝、昼、晩、そして真夜中。少しずつ時間帯を変えて、出店予定地の様子を確認してみたけれど、答えは出なかった。

「浮島通りも、新天地市場本通りも、国際通りに比べると人通りが少なかったんです。どれだけ通りの様子を観察しても、答えが見つからなくて。最終的にはもう、『商売は縁だな』と。二十歳の頃に叔父の仕事を手伝っていた場所で、そこにセブン‐イレブンが出店するというんだから、これはもう賭けるしかないなと思ったんです」

 オーナーになる決心をした角屋さんは、「セブン‐イレブン新天地浮島店」のオープンが発表されると、真新しい名刺と開店告知のチラシを手に、挨拶まわりに出た。

「市場や商店街でお店をやっている方とは、扱う商品がかぶっているところもあるとは思うんです。でも、挨拶に伺ってみると皆さんウェルカムで、地域の暖かさを感じましたね。それに、『昔はお弁当屋さんがたくさんあったのに、今はなくなって困ってる』という話も聞かせてもらって、挨拶にまわればまわるほど、ここでセブン‐イレブンを始める意味が見えてきたんです」

 戦後の闇市を起源に持つまちぐゎーには、小さな個人商店が軒を連ねている。今からおよそ半世紀前、沖映通りにダイエーが出店するときには、地元商店街からは「客を奪われるのではないか」と不安の声が上がった。それが今回、全国チェーンのセブン‐イレブンの出店に対して「皆さんウェルカム」だったのは、時代の流れもあるにせよ、角屋さんが一軒ずつ挨拶にまわったことも大きかったのではないかと思う。新聞販売店を営んでいた角屋さんには、地域の全戸をまわって営業することがほとんど習慣になっていた。その甲斐あって、オープン当日は大盛況となった。

「正直に言うと、最初の2週間のことはほとんど記憶にないんです。もう、ひっきりなしにお客さんが出入りして、とにかく忙しくて。全国からセブン‐イレブンの社員が手伝いに来てくれて、バックアップしてくれてたから、自分にできることは店頭に立って、『ようこそいらっしゃいました』とお客様にカゴを渡す――その2週間でしたね。朝7時にオープンして、夜中の2時ぐらいになって初めて自動ドアが閉まったんです。それを見た従業員が『ああ、このドアって閉まるんだ?』と言ったのをおぼえてますね。いろんなメディアも取材にこられて、中には『名護から来ました』というお客様もいて、これがセブン‐イレブンの力なんだと感じました」

 オープン直後によく売れた商品も、セブン‐イレブンのオリジナル商品だった。特に「金のシリーズ」のセブンプレミアム ゴールドは、並べるそばから飛ぶように売れた。当初は外国人観光客の利用も多かったが、コロナ禍に入り状況が一変した。

「コロナが流行し始めて、公設市場が休業すると、お客様がぴたっと止まったんですね。インバウンドもなくなってしまったので、そこで担当者とも話し合って、もうちょっと地域の人たちに来ていただけるように店内のレイアウトを変えたんです。観光客向けの商材をとっぱらって、地域の人たちに必要となるようなアイテムに棚替えして。近所に飲食店やせんべろのお店が多いんですけど、地域にスーパーがないので、調味料もいろいろ取り揃えるようにしたんですね。そうすると、『オープン直後は混雑してたから、ちょっと入りづらかった』という方も来てくださるようになって、地元のお客様の利用がすごく増えました」

 コロナ禍になって、あらためて気づいたこともある。それは、まちぐゎーで何十年と商売を続けていた店主たちの偉大さだ。

「僕らは新参者で、コロナが流行したときに『これからどうしよう』と思い悩んだんですけど、あの地域で商売を続けてこられた方たちは、バブル崩壊とかリーマンショックとか、様々な不況を経験してるんですよね。その歴史があるからか、びくともせずに大きく構えている感じがしたんです。やっぱり長年商売をされている方の逞しさはすごいなと思いましたね。生活の中で大変なことがあっても、そんなことは微塵も見せず、買い物にきたお客様を元気にさせる。それが商売人なんだなと学ばせてもらっています」

 地域の人たちに必要とされるお店でありたい――コロナ禍を経て、その思いは一層強くなった。感染症対策としてトイレを使用禁止とするコンビニも多かったが、市場界隈にはトイレ設備のない小さな商店が数えきれないほどある。この場所でコンビニエンスストアを営むからには、地域の人たちの生活を支える場所でありたいという思いから、角屋さんはお店のトイレを開放し続けている。また、ここ数年でまちぐゎーから銀行が立て続けに撤退した影響もあってか、ATMの利用率が非常に高いという。

「うちのお客様は、現金利用率が高いんですね。たぶんきっと、今日の売り上げを持ってお弁当を買いにくださっているんだと思うんです。コロナが少し落ち着いてきて、昔のように観光客で賑わうようになると、市場周辺のお店が恩恵を得るわけです。近所の方が豊かになれば、セブン‐イレブンも一緒に利用していただけると思うんです。おじい、おばあの元気な顔を見ながら、地域の方たちとともに栄えていけたらなと思っています」

セブン‐イレブン新天地浮島店オーナーの角屋隆司さん


セブン‐イレブン新天地浮島店
沖縄県那覇市松尾2-20-6


フリーペーパー「まちぐゎーのひとびと」
毎月第4金曜発行
取材・文・撮影=橋本倫史
市場の古本屋ウララにて配布中


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