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22,05,29 自分のためと他人のため

「人に優しくする」
「人に親切にする」
「誰かのために犠牲になる」

家族ならまだしも、他人に対してこのような行為をすることはなかなか難しいであろう。


誰だって自分が一番かわいいはずである。
ほとんどの人がそうではないだろうか。


でも少し考え方を変えると、
「自分のために」が「周りのために」につながることもある。



例えば、私は海外ボランティアをしたことがある。
街頭募金をしたり、イベントでの収益を集めたりたりし、発展途上国での学校建設や文房具の購入への支援金とするのだ。

街頭募金などを見たことがある人で、「偽善者じゃん」とか「大したお金も集まらないのにやる意味あるのか」とか思ったことがある人もいるのではないだろうか。


たしかに、ボランティアに参加する人の目的は様々で、
もちろん
「将来海外で本格的にボランティア活動をしたいから」「単純に困っている人たちを救いたい」
という純粋なボランティア精神を持って取り組んでいる人もたくさんいるが、

一方で、
「昔からこういう活動をしてみたかった」とか
「友達がやっていて楽しそうだったから」とか
「就活で少しでも有利になるから」とか
「思い出作り」とか
支援先の人たちのためというよりは自分のためにやっているという人も少なからず多いのではと思う。



しかし、それは悪いことではないと私は思うのだ。
なぜなら、「自分のため」にしている行為が結果的には「支援先の人のため」になっているからである。

理由はどうであれ、最終的には支援先に学校を立てることもできるし、文房具を購入することもできるし、少しずつではあるが「やらない」よりは絶対的に良くなっていくはずなのだ。
(ここでは海外ボランティアの在り方などの深い話は一旦置いておいて、単純に考えた場合の話で。)



他の例でいくと、
私が仕事先で心掛けていることは、
「名前のない仕事を積極的にする」ということである。


「名前のない仕事」とは、例えば
落ちているゴミを拾ったり、誰も替えようとしないホチキスの芯を替えたり、更衣室の空箱になったティッシュを新しいものに替えたり。。

といった具合である。お金にならない仕事ともいえる。

そもそもこういうことが自主的にできないのはあまり良い集団ではないし、ルール化しないとできないというのはあまりに悲しいことである。

しかしルール化したとて、社内メールで呼びかけたとて、「誰かがやるからいいや」と思ってしまうのが人間というものである。


そういう「名前のない仕事」をやるようにしているのは、「同僚のため」というのも少しはあるが、基本的には「自分のため」である。


自分が次に使うときに困るし。
自分の徳を積むためでもあるし。
もし誰かが気づいてくれて褒めてくれたら嬉しいし。
自己満足のためでもあるし。


結局は自分のためである。
しかし、その「自分のため」にした行為が結果としては「誰かのため」になっているのであれば、
それはそれでウィンウィンではないか。


それでいいんじゃないかなと思うのだ。



誰だって、他人のために自分を犠牲にすることは難しい。
でも、「自分のため」というように考え方を変えれば、他人に優しくできるのだ。


それに、「誰かのため」という思いは一時的に生まれることが多いので継続するのが難しいが、
「自分のため」という思いは、ずっと続くので、継続的に周りのために行動することができるのだ。



私がやる必要があるのかとか、面倒くさいなとか、これをやったところで意味はあるのかとか、
そういうことばかり考えてしまうときは少し考え方を変えるだけで、前向きになれるのだ。



ここまで「自分のため」でいいんじゃないか論をつらつら述べてきたが、そんな私が、昔から忘れられない言葉がある。

「図書館戦争」シリーズに登場する、郁の言葉。

郁が図書隊として闘っていることに対して郁のお母さんが
「なぜ郁が闘わなければならないの」
と娘を思っての親心から、問うシーン。

それに対して郁は、
「みんなが人任せにしているうちにこんな世界になっちゃったんだよ。
誰かがやらなきゃいけないことで、私はその仕事を選んだ。」
とお母さんに告げるのだ。



私はこの言葉を見てからずっと

「この言葉の中の”みんな”に私はなってはいけない。」

と胸に刻み、日々生きている。


そんな今日のお供は星野源さんでした。



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