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【酔筆素読#2】外人、ホモ、ガイジ


私が二十数年生きてきて見かけた蔑称、もしくは差別用語の代表例です。

正確に言えば、差別用語なのだとあとから知った、もしくは差別用語だし使わないようにしておこうかとした言葉です。

私は言葉狩りは好きではないし、その言葉を取り巻く状況も一つの文化だと思っていますし、使う人を0人にしたいわけではありません。別に使うなともいいません。ただもし使いたいのであれば、理由をもって使うべきだとは思います

今回はそんな言葉ひとつひとつにまつわるエピソードをなんとなく書いて、フォロワーの非常に少ないnoteではありますが、非常に刺々しく、薄い正義感だけで語ってない差別用語観をここに残しておこうと思います。

外人

これを差別用語だと思っていない人も多いのではないでしょうか。というか私も、中学時代の英語教師の受け売りでしかないので、これが差別用語なのかは厳密にはわかりません。ただ、最近のテレビでは使われない言葉なので、「使わない方がよい言葉」なんだろうとは思います。
それゆえに、私の周りでも外人と表現する人は多いですね。ちなみに1989年制作のアニメ『美味しんぼ』をHuluで見ましたが、外人という表現が出ていました。

今述べた中学時代の英語教師がバスに乗っていたとき、車内で友人と「外人」という表現をしたところ、近くにいた外国人から、「外人という言い方はしないように」と注意を受けたようです。いわく、「人の外=人外=人ではない」というニュアンスがあるからだそうです。

ただ後年疑問に思ったのが、「外」という感じを「人」と組み合わせることで、あたかも「人の外」というニュアンスを生み出すのは、日本語や漢字に慣れ親しんだ人だけなのではないでしょうか?当の本人達とも言える外国人自身がどう思うのかは疑問です。日本人の過度な自主規制なのでしょうか?

とはいえ、今の私には外人という表現はもう気持ちの悪い言い回しに思えてしまうようになったので、必ず外国人と言うようになりました。


ホモ

セクシュアリティやセクシャルマイノリティについて少しでも興味のある方であれば、男性同性愛をホモという言葉で表さないほうが良いということをご存知の方も多いのではないでしょうか。

テレビ番組でも、ほんとに数年前までは使われていたように思います。例えば2000年前後に放送され、今でもカルト的人気を誇る『水曜どうでしょう』の中で、出演陣4人(全員男)がヨーロッパのホテルでダブルベッドの部屋に通されたとき、「ホモの集団だと思われてる」と言う場面があります。

またそれから数年後、TBSのバラエティ番組『リンカーン』の企画で雨上がり決死隊の蛍原が山口智充の似顔絵を描いた際に、ダウンタウンの松本が「完全にホモですよ」と表現してたりもします。

あるいはニコニコ動画を中心に、『真夏の夜の淫夢』などの流行によって、「ホモ」という言葉は昔よりもより一層、広い層に使われるようになった気がします。

ただし、男性同性愛そのものを中傷したり、ネタとして消費する場合、「ゲイ」という言葉も「ホモ」と同義で用いられているキライもあり、重要なのは「ホモ」か「ゲイ」かどうかではなく、男性同性愛に対する認識なのではないかとも思います。

ところで、「レズ」という表現も「ホモ」と同様使わないほうがよく、代わりに「レズビアン」と行ったほうが良いと、私が仕事で接したお客様がおっしゃってました。


ガイジ

こちらは完全なネットのスラングです。由来は「障害児」からと言われています。先ほどの「外人」「ホモ」と同じく使われる場合は基本的に無批判で、なおかつこちらはより悪口として用いられているような気がします。ただし「ゲイ」と同じく、「障害(者)」と言って誰かを中傷する場合もあります。

いつ頃から使われているのかはわかりません(似たような意味合いの「池沼」とかのほうが、より昔から見る気がします)が、テレビや新聞などのマスメディアはもちろんのこと、週刊誌やネットニュースでも登場しない表現です。ただしTwitterやネット掲示板ではかなりメジャーな言葉です。

私の仕事場の同期も「ガイジ」とよく言う人がいますし大学時代もよくいましたが、私も人並みに「そういうこと言う人はどんな気持ちで使ってるんだろう?」と思ったりもします。

ただ深く考えても仕方ない気がします。

こういった表現を用いて誰かを中傷する人の目的は「中傷」であって、「差別をしないこと」ではないわけですから。

またそこには、別に差別や障害者について特に関心がないということも原因としてあげられるでしょう。関心を持つことは大事ですが、関心を持ち、これは差別用語なのだと知った上で、それでも使うのであれば、私にはそれ以上何も言う権利はありませんし、特になんとも思いません。


まとめ

差別用語には時代によって、あるいは感じ方によって動態的に存在し、またその程度も異なります。それゆえ何に対しても言葉の使用制限をするのは、私は賛成できません。ただし、使うのであれば決して無批判に使うのではなく、その言葉を用いることによって少なからず嫌な思いをする人がいることくらいは、頭の片隅に置いておいても良いのではないでしょうか。配慮するしないは別にして。

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