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どうでもいい話。

どうでもいい話なんですが、今から20数年前に母親に耳が痛くなるくらい「いい歳して、もう30過ぎなんだから」って言われていました。「30歳過ぎていつまでも独身で甲斐性がない。」という意味でも言われていましたが、それとは別に私のある習慣をなじっての苦言でした。

20世紀の終わり、携帯電話が急速に普及していってはいましたが、まだカメラもついていなかったし、携帯でできるゲームは単純なもので、インターネットにもつなげることはできませんでした。
当時、電車に乗っている人の多くが新聞や雑誌を読んでいました。特にある曜日になるとその日に発売になった少年漫画誌を読んでいる人が目立ちました。

そうです。「いい歳して」って言われていたのはこの漫画誌です。
私は中学生からとある週刊漫画誌をずっと愛読していました。ある曜日になると本屋の店頭にその雑誌が並ぶのを待って我先に買い求め、大学生になって電車通学を始めるとその曜日には必ず駅のKIOSKでその雑誌を買っていました。4年生になると、研究室のメンバーでそれぞれ買ってくる漫画誌の分担を決めて、研究室で回し読みをしていました。
就職して千葉県の工場勤めになったときも、コンビニで必ず購入していましたし、数年経ってシンガポールに赴任したときも現地の紀伊国屋書店で日本の3倍もする値段でも買い求めていました。
数年経って東京の営業部に勤務になった際、実家に戻りましたが、この習慣は続いていました。読んだあとの漫画誌は部屋の一角に積みあがっていきます。これを見て母親が「いい歳して」を耳が痛くなるくらいリピートしていたという訳です。
読み終わったマンガ雑誌なんか帰宅する前にどこかで捨ててしまえば良かったのですが、生まれついての貧乏性でお金出して買った本をほんの数時間で捨ててしまうことができず、あとで読み返すことなんてほとんどないのに持ち帰り、それが決して広くはない(はっきり言って狭い)部屋に積みあがっていきました。
ある程度の冊数が貯まると母親が紐で縛ってゴミに出します。当時住んでいたのはエレベータもない集合住宅の4階です。そりゃ「いい歳して」と愚痴りたくもなりますよね。

さすがに現在は漫画誌を買い求めることもなくなりました。購読をやめたのは米国アトランタでの駐在生活がきっかけでした。日本の漫画誌を買える本屋はあったのですが、単価がやはり高いのと、家からその本屋が車で20分ほどの距離があり、次第に面倒くさくなったというのが理由でした。(シンガポールの紀伊国屋は当時たくさんあった日本のデパートの中に必ずと言っていいほどあって家から歩いて10分くらいの場所にもあり、食料品を買うついでによく寄っていました。)
一回途切れた習慣は日本に戻っても復活することはありませんでした。(4年もたてば連載されている漫画も変わってしまっていますし、改めて「いい年して」といわれる習慣をリブートする気も起きませんでした。)

さて現在です。雑誌や新聞を電車の中で読む人たちは希少となりましたが、ほとんどのひとが電車にのっている間じゅうスマホを操作しています。
あるひとはゲームをしていますし、動画をみたり、記事を読んだり、スマホでも漫画を読んでいるひともいるでしょう。しかしながらほとんどの場合、他人からは何を見ているのかはわかりません。さてその何割が「いい歳して」って言われないコンテンツを見ているのでしょうか?なんて思ったりします。(電車内でマナー悪くて「いい歳して」っていいたくなる輩は数えきれないほどいますけど。最近は学校でも電車の座席の座り方やマナーは教わらないんでしょうね。)
昔の感性からすると、何を見ていても「いい歳して」って言われない環境がちょっとうらやましく思える一方で、私が漫画を電車のなかで読んでいた以上の教養をスマホから得ている人ってどれくらいいるんだろうか?とちょっと思ったりもします。(漫画といえども活字があって、活字の数量は少ないとはいえある程度の国語力がないと読むことはできませんし、そこから得られる表現力や単語力は少なくはなかったと記憶しています。)

まあ、いまとなっては私が漫画誌を読んでもスマホを触ろうが、「いい歳して」と苦言を呈する家族もいないので、本当にどうでもいいことなのですが、なぜかちょっと文章にしたかったので書き留めてみました。また何をみても「いい歳して」って言われない現在の電車に乗っている人たちをみていると、(自分も含めて)あの頃の自分とはもはや違う生き物なんだろうなとしみじみ感じます。



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