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寺子屋から大人数教育を経て、また少人数教育へ

近代教育制度は当たり前ですが近代国家になってから導入されました。近代国家が必要とする国民を育てるために作られたものですが、それまでの教育とは異なり、一対多の集団教育であり、学校を作ってそこに学生を集め、政府が認める資格を持つ教師が教える仕組みです。

これにより、多くの国民を効率よく教育出来るようになり、近代国家としての富国強兵・殖産興業が実現することになります。

それ以前の教育と言えば、ヨーロッパでも教会やギルドなどによる学校がありましたが、国民を育てるものではなくあくまで自分たちの後継者を直接的に育てるものでした。

日本で言えば寺子屋や藩校がありましたが、集団的に一律の内容を教えていくのではなく、個々人に合わせた教え方をしていました。いわゆる「手習い」というものですが、一人の先生が年齢も能力も異なる子どもをまとめて教えるので、多少は一緒の内容を教えるにしても、一人ずつ分かるまで教えるものでした。また、先に習っている先輩のお兄さんお姉さんが小さい子の面倒を見るのも普通でした。

さらに日本でも欧州でも、お金(と、それなりの地位)があれば家庭教師が教えるのも当然でした。それにより、生徒は余程出来が悪くない限りは見捨てられません。金の力はかくも偉大ですが、集団で一緒に学んで試験を受けて勝ち上がっていく、という構図は人類の教育の歴史から見ればほんのごくわずかな期間、ここ百数十年のみに過ぎません。

昭和の途中までは人口が大きく増加していたので、ベビーブーム、第二次ベビーブームの世代が学校に上がると、教室も席も不足してすし詰めで勉強することになりましたが、今では1クラスの人数も減りました。今後も減っていくでしょう。

公教育だけではなく、私教育である塾・予備校も少人数制が当たり前になりました。子どもの数が減ったのですから、集団で一律の教え方をして落ちこぼれを見捨てるやり方は、むしろ効率的ではなくなりました。

子どもが大量にいた時代は、厳しい競争にさらして落ちこぼれを見捨てても、社会全体だけを見れば効率は良かったのです。見捨てられた人はたまったものではありませんでしたが。

しかし、少子高齢化・人口減少社会においては、見捨てるほどの余裕は全くありません。デジタル教育も現場の教員にとっては大変な取り組みだとは思いますが、落ちこぼれを作らない教育は今後の日本社会においては必須であり、本人のみならず社会そのものを救う方策です。

そう考えると、近代国家が必要とした集団一斉教育は、長い歴史から見れば時代の徒花になるでしょうか?

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