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日常から死が無くなるということ

生きとし生けるものは必ず死にます。誰もが理解しているはずですが、いざその「死」を目の前にすると冷静でいられなくなります。もちろん、死を目の前にして冷静な方がおかしいのかも知れませんが、「死」は自分とは関係ないものだと思い始めると問題が発生します。

「看取りの家」断念 多死社会の課題浮き彫りに
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201906/0012407843.shtml
神戸市須磨区で余命が短い患者らに最期の場所を提供する施設「看取(みと)りの家」の開設計画が頓挫したことについて、地元では、反対していた住民から安堵(あんど)の声が上がる一方、「この問題を勝った負けたで終わらせたらだめ」「死を見据えて生きるきっかけにしなければ」などと複雑な思いも聞かれる。

人間が生物として「死」に嫌悪感を抱くのは自然なことだと思いますが、だからといって日常に「死」が存在しないものと考えるのは無理があります。誰だっていつかは死にますし、毎日のようにニュースで誰かが死んだ報道を目にしています。

以前、「南青山児相問題と原発問題」というnoteを投稿したことがありますが、その中で、

公共施設を自宅のそばに作ることを許せるかどうか、というのは誰でも考えるべき問題です。
 この辺は人それぞれ許容範囲が異なると思います。ゴミ焼却場は駄目だけど児相はOKと言う人もいれば、自衛隊や米軍の基地もOKと言う人もいるでしょうし、もちろん何もかも駄目という人もいるでしょう。
 そういった公共性の高い施設・設備を自分がどれだけ使用するか、恩恵を受けるか、というプラス面での検討と、その施設によってどれだけ迷惑や損害を被るかというマイナス面での検討を行って、釣り合いが取れるところで判断することになります。

と書きました。
今回の神戸市の看取りの家も似たような問題ですが、自分がすぐに直接関わらない施設は自分の近くには来てほしくない、という意見を利己的と主張してしまえばそれまでです。

そもそもなぜ、生物にとって必然である「死」を社会問題化するレベルで忌避してしまうのか、と考えるべきではないでしょうか。

核家族化した現代日本社会では、身近な人の「死」を初めて経験するのは成人してからがほとんどです。もちろん、親や兄弟姉妹を若くして亡くしてしまう人もいると思いますが、医療が発達し交通事故死者数も減った現代ではかなり少なくなりました。

成人してから「身近な人の死」に直面するということは、人格形成期において「死」に直面しないということでもあります。「人が死ぬということ」を自分に関係するレベルで考えたことが無く、かつ、考える必要も無いということです。

核家族ではない家庭、すなわち、自分の親兄弟だけではなく祖父母、伯父伯母などが同じ屋根の下や近所に住んでいる環境ですと、自分の親が死ぬ前に祖父母などの死に直面します。親が死ぬ時期よりも祖父母が死ぬ時期の方が早いということは、成人よりも若い時期に「身近な人の死」に出くわすことになり、「人が死ぬということ」を考えるきっかけになります。そして、日常には「人の死」が存在するのだと心の中で顕在的にも潜在的にも認識するようになります。

核家族ではない家庭に育った人の全てがそうなるとは断言するつもりはないですし、逆に核家族で育った人でも「死」を意識している人もいるでしょう。あくまで全般的な傾向としての話ですが、子どもの情操教育のためにペットを飼う(そして生き物の生と死について学ばせる)という人が結構いるのに、自宅の側に看取りの家やホスピスや火葬場が作られることは拒否する人も結構いるのは何故なのでしょうか。動物蔑視ではありませんが、ペットの死と人間の死を比べたときに本当に人生を生きる意味を考えさせてくれるのは後者のはずです。

また、核家族化がこの原因だけとは思いません。宗教、主に仏教から日常が離れてしまったことも一つの原因かも知れません。仏教と関わるのは昔でもほぼ葬式・法事だけでしたが、今では葬式・法事ですらかなり参加することが減ってきています。少なくとも日本において仏教に関わることがあれば否応なしに「人が死ぬということ」を考える機会になりますが、宗教が単なる非日常的イベント化してしまうと、「死」を意識することも無くなるのは必然です。

あと、近所づきあいが無くなったことも大きいでしょう。家族・親族の死だけではなく近所のお年寄りの死を経験することが無くなるわけですから。

このように「死」を日常の中で経験することがどんどん減っていく現代社会において、神戸の看取りの家のような、死を迎える施設そのものを忌避してしまえば、「看取られない死」を迎えることになります。病院で苦しみ抜いた末に死ぬのではなく、緩やかに地域や家族の中で死を迎えるのが時代の流れになりつつあります。しかし、自宅での死が様々な事情で無理な人は、家族がすぐに来られないような場所にポツンと出来た施設で死ぬのが本当にその人にとって望まれる死の迎え方なのでしょうか。

看取りの家を拒否した住民だけではなく、なぜこの場所に作るのかという説明をきちんと出来なかった事業者側にも責任があるのだと思いますが、おそらく今後、全国で似たような問題が出てくるはずです。その時に、「人が死ぬということ」を事業者側も住民側も考えた上で結論を出してほしいと思います。

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