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ちりばめられたいちばめん


11月に出版予定の小説のゲラにダラダラと手を入れている。

コンテストを受賞し、あらためて原稿を眺めてみると、どこもかしこも下手くそで、目も当てられない部分だらけで辟易している。

コンテストは応募時から、結果が出るまでにそれなりの時間を伴うものだから、作者本人であっても、改めて読んだ自分の文章や構成に違和感を感じることがある。どうしてこんなものを厚かましく送ったのだろうと信じられないような気持ちになったりもする。

これを現在の感覚で修正していくのだが、記憶と時間の地層を見るような思いで面白くもある。そもそも投稿サイトに中編ほどのサイズで書かれた小説で、つまりコンセプトが違うものだったのを、無理やり建て増しした、ウィンチェスター・ミステリーハウスのような超増築物件なのだ。

設計に歪な部分があることは間違いなく、多くの箇所を誤魔化し、それらしく取り繕ってきたのだったが、どこまでリフォームできるかは正直心もとない。

ともあれ、こういった作業は時間の中で自分の感性が変貌していく様を見るようで面白い。noteを書き始めて、さまざまなSNSや媒体で書き散らした日記を掘り出しているのだが、本当に新鮮な思いでハッとするようなことも多い。

疎遠になってしまった友人や、取り壊された建物がそこにある。二度とない時間。そもそも僕の小説は「成都」という20年前に訪れた中国の都市への郷愁から始まっている。サイバーパンクな装いでブーストしたとしても、根本にあるのは懐かしさであり、取り返しようのない喪失感だった。

「壮麗にして空虚なだまし絵」と僕は成都を形容したけれど、そもそも記憶ってのは飛び出す絵本みたいなもので地球上のどんな場所や出来事もデフォルメされただまし絵になってしまう。

僕の閉じられた記憶の絵本には、サンフランシスコが、西安が、ホーチミンが、コルカタが、飛び出す仕掛けを小さく折り畳んでページを重ねている。本というのは、別の見方をすれば折り重なる地層で、軽率にスコップを入れれば、ギョッとするような恥部やら汚点やらが飛び出してくるのだが、それでもごく稀に、疵も汚れもない輝かしい何かが飛び出してくることもある。

ただしそれは特別な何かでもない。タクシーでの恋人との口論だったり、尿意を堪えかねたあいつの鎮痛な表情だったり、公園の錆びた鉄柱の手触りだったり、と卑小で何気ない一場面だ。なぜそんなものが記憶の中ではっきりと光彩を放っているのかは誰にもわからない。

「ちりばめられたいちばめん」が何になるのか、誰にもわからない。


リロード下さった弾丸は明日へ向かって撃ちます。ぱすぱすっ