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おそなえものはかきごおり

物事にはオモテとウラがあるもので、とはいえウラについてあまり声高に叫ぼうものなら「陰謀論」だと思われてしまいます。そういうことが、ここ数年とても多くなったと、そう感じます。

たいていの、いさかいの、その原因となるのは正誤や善悪や利害ではなく「温度差」ではないかと思うのです。持っている価値観は同じなのに、少しの温度の差が違いを生み出して、争いや別れを生んでしまう。でも今日はなんとなく、その終わりにするのに相応しい日なのではないかと思います。

だから今日は、ひんやりとした話。

葬式のオモテは故人を偲ぶということにつきるでしょう。故人が記憶を自分の心に焼き付け、完結した故人の人生を(ある意味で)自分のものにする。と同時に、もう会えないという事実を受け入れる。なにか大きなイメージがあれば「信じられない気持ち」を上書きするのに役立ちますから、信仰みたいなものの有無はさておいても、式には相応の意味があります。

葬式のウラは、世代交代を告げること。

古くから権力は人に結びつきやすく、権力が移譲されたことを世間に大きく知らしめる必要がありました。「オヤジは死んだ、これからはセガレに従え」と。国家、一家の違いはありません。

個別の信仰における死者に対する特別な考えを抜きにすれば、オモテとウラのどちらもが、「残された人たちのため」にあることがわかります。故人にどれだけお世話になったか、故人が好きだったか、あるいは嫌いだったか、その違いは大したことではありません。温度差に過ぎないのです。

ただし、わざわざコトを大きくする意味は、オモテよりウラにあります。

そういえば今日は安倍元総理の国葬でしたね。と、しらじらしく話は続きます。

今回の"安倍国葬"は、銃撃事件の約1週間後に岸田総理が「やるぞ」と発表したわけですが、そもそもは麻生太郎氏から岸田総理に「国葬に」と進言があったと言われています。渋る岸田総理に対し、麻生氏は「理屈じゃねえんだよ」と言ったとも。

大きな出来事があれば便乗するのは政治の常なので、不思議なことではありません。国葬を巡ってこの2ヵ月間、さまざまな議論が行なわれてきたなかで、麻生氏の「理屈じゃねえ」は無視されてきましたが、もっとも事態を的確に示した言葉であったと思います。(発言が事実であれば)発端なのだから、当然ですけどね。

オモテしか見なければ「弔意の強制」という考えに至るのは自然です。でも、ウラを考えればそんなのどうでもいい。「やってもいいかも」と思う人々の考えも温度も、それぞれであり、いろいろです。そして、オモテそのもの以外の思いはすべてウラとして見ることになります。

例えば、岸田総理は安倍政権で外務大臣を務めたものの、その考えは安倍元総理と大きく違うことが知られています。決して岸田総理が謀ったとするわけではありませんが、国葬には「安倍元総理の終わり」を世界に向けて大々的に知らしめる作用があることは明白であり、これは岸田総理にとって都合が良いことです。昨年秋の総裁選で岸田総理は、安倍元総理に対立候補を担がれ、総裁選に勝ってからは不本意な人事を迫られそれに応じてきました。

「死んでくれて良かった」

とまでは言わないでしょうけど、生きていてほしかったと思う理由などひとつもないでしょう。

国葬をやると決めてからの、その賛否を問う世論調査では回を重ねるごとに「賛成」と回答する率は低下していき、9月に入ってからはついに、主要なTV・新聞すべての調査で「反対」が上回るに至りました。

あわせて政権支持率もダダ下がりになりましたが、岸田総理にしてみれば大した痛みはないはずです。(ほかになにもしていないも同然なので)あくまで「安倍国葬」を通じて下がった支持率は、自然に回復していきます。次の一手で下手を打てば崩壊しかねないリスクはあるものの、国葬不支持による支持率低下は、あくまで「安倍元総理の不人気」と記憶され、やがてはそれすらも忘れられていくことでしょう。

政治の世界には確かに「陰謀」もありますが、それはこんなにわかりやすい「作用」とは異なります。

安倍元総理を強く支持するひとたちが、オモテだけを見て、この国葬を良きものとしていることはなかなか不思議な事態です。安倍元総理を背後から撃ったのは、誰か。見失っている理由は、その熱さにほかならないのではないでしょうか。

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