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第二次世界大戦 『第一高知丸 生還者の手記』

これは、私の祖父が戦時の壮絶な記憶を手記に書き遺したものです。誤字など読みづらい部分があるかもしれませんが、あえて原本のままにしております。貴重な記録だと思いますので、読んで頂けたら幸いです。


「我等若者が征かなければ戦争は勝てない」

昭和十七年十月(満十七歳)、両親に内緒で村役場の兵事係をたずねた。当時は海軍志願兵募集に村役場も懸命になっていた。どうしても憧れの海軍に入りたかった(第一希望は掌電信兵、第二希望は主計兵)。十一月に田口小学校にて採用検査が行われた。検査官は海軍の現役の下士官が直々であたった。憧れの軍服姿の海軍々人を目の前に見てどうしても合格しなくてはと夢中で受験した(名倉村より八名受験)。先づ学科、次が身体検査及び適性検査、それで終わりだが当日は合格しても一ヶ月後に採用通知が来なければ不合格である。その採用通知を待つ一ヶ月間の長かった事を今も脳裏にはっきりと覚えている。神柵に燈明をあげ神頼みである。待ちに待った合格通知が来た。「昭和十八年四月に大竹海兵団に入団すべし」飛び上がって喜んだこの時のことは一生忘れない。但し、今振返って当時のことを思うとき軍国主義教育とは恐しいものだと心より思う。老人から子供まで戦争にかつならばどんな事でもする。死んでもよいと心底より思っていたのだから。一億一丸である。

出発する昭和十八年四月七日夜、町内十八戸と親族で送別会をして呉れた。村はずれ(村役場より五キロ弱)の為電気はなく、照明は石油ランプである。座敷に三個のランプをおき、心を込めて送別の会を催して下さった。酒は合成酒又ドブロク、衣服はスフの服。靴はガラ紡を織って作ったズック靴。タバコも配給制。米も麦も悉く配給制である。いよいよ出発の朝が来た。天気は快晴、部落の青年団の音楽隊に送られて名倉を後に一路山口県大竹海兵団へ。名倉出発の時の名鉄バスの車掌はイトコであった。

東三河の志願兵は一応豊橋駅前に集合し役場の係の方と父と豊橋の叔父と共に名古屋駅前へ。愛知県の志願兵全員で知事の別れの言葉を受け夕方出発。どの志願兵を見ても希望に満ち溢れている。どの人も体が大きく見える。圧倒されてしまう。これも田舎者の為と思う。この人達と競って果して勝てるだろうか。考えれば考える程心配ばかりである。名古屋より出発したのは約三百名位と思う。肩から軍艦旗を斜めに掛け思い思いに気持を表している。列車が汽笛を鳴らし出発。父や叔父ともお別れである。現在のような新幹線ではなくコットンコットンの鈍行である。眠っている人は一人もいない。窓の外を眺めている。大阪、神戸を過ぎた頃、車内放送で「左側の窓のカーテンをしつかり閉めて下さい」と。当時は瀬戸内海は要塞地帯の為スパイ防止の為カメラ撮影は厳禁。違反者は厳罰にされた。

午前四時頃、大竹駅に到着。下士官に先導されて海兵団に着く。班の割り振りも決まり、自分の決められた班に落ち着く。班長より呉志水四七四〇八号の番号が授与され、海軍在任中の番号となる。下士官が優しくいろいろ説明して呉れる。今まで思っていた上官と態応が違う。その優しさが三日間続いた。食事はお頭付の魚、ご馳走の連続である。この下士官達が三日後に一変した。その時の言葉はこうである。「おまえ達は海軍に遊びに来たのか、寝ても起きてもダラダラ。海軍はそんな生やさしいものではないぞ。心を入れ替えろ。世界に誇る海軍精神をびしびしこれから見せてやる。心せよ。」佛様のような下士官が三日でこの豹変ぶりである。確かに統制がとれていなかった。カツを先づ入れられた。日中は海兵団の中に有る潜水艦の見学や施設の説明。実地に訓練を受けている兵隊の様子を見て回った。四日目に上官より命令があり、掌電信兵は三田尻駅の防府市中の関に新設された通信学校に移動するとの由、身の回りの品物の入った衣嚢(イノウ)を肩に汽車にて通信学校に着く。新設の為、未だ庁舎と兵舎四棟と調理場、病室だけ出来上がって他は未だ建設中であった。入校の翌日から送信受信の猛練習である。トンツートンツー、モールス附号の暗記、繰返しの訓練で月日が過ぎて行く。十ヶ月で卒業が出来るように教育するとのノルマを与えられ、夢中で覚えた。苦しい毎日であった。製材工員の自分が通信兵になったのだから当たり前である。自分が好んで入った職業である。一期生が昭和十九年二月に卒業、二期生は三月、三期生は五月、三期に分けて卒業を許される。希望して入ったのだ、どうしても一期生で卒業したい。この目標を胸に一心不乱に勉強。見事一期生として下関市に近い朝鮮海峡を警戒する下関市の吉見町にある防備隊に通信兵として着任した。朝から晩まで畜生のように使われる。やれやれ一日過ぎたと食事を終えると老水兵長が総員整列をかける。一日の反省の為、水兵長(上官)は言う。「お前達は海軍精神が入っていない。これから見せてやる。一人一人そこへ並んで両手を上げよ。」二米位の丸木で後から尻を十回、二十回と殴るのである。痛いのを通り越してしびれてしまう。気が遠くなりそうである。又その後がにくらしい。「有難うございました」と殴った上官に最敬礼をして帰らぬと又往復ビンタです。殴られて有難うございましたとは、今考えても残酷な話である。当時は自分達の努力が足らぬ為仕方ないと思っていた。軍国主義や軍隊には人間性を認める精神など毛頭ない。皆無である。人間も教育次第で考え方がどのようにでもなるものと痛感している。殴るその丸木棒には海軍精神注入棒。又その横に大東亜戦争完遂棒と大書してあった。

戦争も益々拡大され、外地へもだんだん戦友が送られて行く。ラバウル、ニューギニアへも行った。防備隊入隊後一ヶ月で横浜の第二十二戦隊司令部付になり転属になる。(現在の横浜市山下公園の近くに有った旧ドイツ大使館。)昭和十九年三月。海軍に入ったのだから艦上勤務を希望し、哨海艇に乗艇する事が出来た。一人前の通信兵として、南方洋上の警戒の勤務に就いた。サイパン島、テニヤン島、グワム島より飛来するB29爆撃機の発見通報が任務である。出港して洋上監視が二十日間。内地に帰って十日間休養し、事務を整理し又出港。所属は第三監視艇隊。旗艦は第三海洋丸(三千七百トン)。昭和十九年四月から年末頃までは平穏な毎日が続いていたが、硫黄島がアメリカ軍艦に包囲されアメリカ軍に陥落してからはB24爆撃機は艦船攻専、紅林中将以下総員玉砕(後日の調査で捕虜三千名位と判明)、B29の本土爆撃が益々はげしくなって来た。船が小さい為、台風に遭遇すると命がけで通信をするが、敵機と潜水艦・機動部隊発見時以外は絶対電波を出す事は出来ない。電波探査機により位置が判ってしまう。SOS発信は最後の時のみ。昭和十九年の終わり頃より東京爆撃が始まった。出撃中、我々がB29発見、直ちに内地の通信隊(横須賀、大湊)に通信をする。内地では通信すると五、六分間で警戒警報がラジオで放送され、次に空襲警報発令となるのである。当時我々は最前線で役目を果しているのだと誇りに思い威張っていたものだ。(満十九歳)

或航海の時の出来事であるが、司令部からの命令で「一回の出撃艇(四十艇)の一航海の送受信の成績を比べるから頑張ってくるように」との連絡があった。出港してから入港するまで気を緩めるわけにはゆかない。怠けて受信を落せば艇の航路に関係する為、常時レシーバーを耳から離すことが出来ない。新聞は無い為トンツートンツーで打ってくる符号を受信し文章に訳するので日本の情勢ニュースが判り、その電文を艦長に報告する。毎日の仕事でこの仕事だけでも大変な仕事である。努力して入港し、全資料を司令部に提出した結果一位になった。何より艦長が喜んで下さった(熊谷三七三少尉艇)

戦況も敗色が少し出て来た昭和二十年三月二日。下宿のお叔母さん達や僚艇に見送られて最後の出港になる。天皇陛下よりいただいた恩賜のタバコと酒を戴いて別れを惜みつつ。サヨウナラサヨウナラと心中で叫びながら横浜港を、本土を後にした。司令部で決められた任地地点は北緯二八五度、東経一三五度。内地から十日間位で統着した。任地地点は命令が来るまで絶対に守らなくてはならない。敵潜水艇(二艇づつアベック航行)に発見され次々と僚艇が撃沈された。栄福丸には名古屋の戦友が乗っていたがSOSを発信しながら沈んで征った。一度に二十艇ほど出撃するが帰って来るのは半数弱しかいない。如何に制海権・制空権のない戦いは惨めであるか。又、通信士の私には全艇の行動が手にとるように判る。

昭和二十年三月二十日朝七時、起床。洗面していた時のこと。「ブリッチの見張りのマストより、船の右後方より我が艇に向かって来る黒い飛行機二機が見える」との大声が聞こえる。常に緊急の場合の電文は準備してある。敵と交戦中とか敵味方不明の飛行機何機とか、或いは退避中とか、極めて短い電文が決められていた。ブリッチからの連絡によって通信室に帰り、通信隊に知らせる為キイをたたいていた。トトトツートトトツートトトツーと試験電波を出している最中にガンガンガンガンガンガン…二機で反復攻撃。第一回目の攻撃で通信機が壊れてしまった。隣に座っていた暗号兵が胸を打ち貫かれ即死した。私も右足首(カカト)を貫通されて痛く歩けない。左足は健全だった為ケンケンをして医務室に入った。デッキや廊下にはハダハダ戦友が死んでいる。医務室で衛生兵に止血の為大腿部をタオルでねじり上げている時、又打って来た弾により衛生兵が壮烈な最期を遂げてしまった。上甲板を打ち貫いて来た為、弾が振れている為傷が大きい。仕方なく上甲板に昇る階段を一本足と肘でよじり上り船の後部は行こうと思ったが戦友の死体で通れない。仕方なく外の通路をケンケンで通り抜けやっと後部に着いたその時まで、ひっ切りなしに攻撃して来た敵機は十四機である。我艇一隻に対し敵十四機。結果は当然負けである。戦友も二十五ミリ二連発機銃にて敢然と戦っていた。次から次と戦死していく友、艦橋で指揮して居た艦長が叫んだ。「船は最後まで守るから生きているものは全員海へ飛び込め。」と。十五名位のものが次々に海へ飛び入り泳いでいく。その間も間断なく敵機は船目がけて敵銃掃機を繰返して来る。障害物がなく、低空で射って来る為パイロットの顔がハッキリ見える。「畜生め…」と思うのだから敵も同じく最後までやっつけてやると思っているに違いない。誠に勇敢に突っ込んで来る。

最初攻撃されてから三時間くらい過ぎている。水平線に黒い船が小さく見えると思う間もなくガンガンガンガンガンガンと我が船への艦砲射撃が始まった。自分は五十米くらいの地点で眺めていたが実に正確に当る。びっくりした。生きて居られた。最後まで船に残った艦長は哀れ敵弾でふっ飛んで戦死。三回の砲撃で船尾から沈んでしまった。まさに地獄である。船が沈んだからもう攻撃は止めるかと思っていたが敵機の掃撃は止まらない。その周辺に物に掴まって浮いている兵隊に向けて容赦なく弾の雨。たまったものではない、次から次へと戦死して行く。いよいよ小生の番が来た。それがはっきり判る。自分めがけて低空で次々撃って来るのに当らない。ダンダンダンダン一回突っ込んで撃つ弾は二十発位と思うが皆それてゆく。が、その時である。撃って来た弾が左足首に当ってしまった。その時、目の前に大きな母の顔、次いて父の顔、兄弟の顔がはっきり浮んだ。もう今夜は終りだろうか。助からないと内心思った。でも頑張って生きられるだけ生きよう、自分で自分を励していた。両足首を見れば血液は出っぱなしである。永くなれば駄目だろうと思う。何となく体が震えて来た様な気がする。考える事は故郷の事ばかり。もう敵機など恐しくもこわくも何ともなくなっていた。耳元で誰かが「お前は助かるから頑張れ頑張れ」と囁いてくれる。あ、そうか。では頑張ろうと勇気を振り絞っていた。でも気力は有るのだが寒さの為か、それとも出血の為か体が益々ブルブルと震えて止まらない。水が飲みたい。水分が欲しい。海水でもよいなら飲みたいと思うが負傷した時に水を飲んではいけないと海軍で常に教えられている。泳いではいけない。物に掴まって体を動かさずその儘じっとしていること。体力消耗は駄目である。震えがひどくもう十分ももたないと思った時に救いの神が現われた。その神とは敵放射撃をし我艇を撃沈した敵アメリカの駆逐艦(三千トン級)であった。うすずみ色をした駆逐艦である。グラマンより連絡を受け、私達生き残りの三名を助けに来てくれたと思う。その時はグラマンは上空を旋回するのみで突込んでは来ない。何か判らぬ声がスピーカーで呼んでいる様である。無論言葉の意味は判らないが、何か続けて叫んでいる。英語は勿論ローマ字も知らなかった。自分には何を言っているのか不明であった。後で考えてみて、あの時には米兵が「助けに来た。しっかりしていなさい。今すぐ助かるから。」と言っていたと推測した。大きな船体が戦友の体に横付けになるようにして縄ハシゴを下して二人の水兵が水面スレスレまで下りて来ている(吊り上げ用のロープを持って)。書き遅れたが生き残っていたのは鈴木上等機関兵と川野水兵長と小生三名である。先づ米兵が鈴木を救い上げ、続いて川野を、最後に小生を吊り上げて終った。駆逐艦に下された時には息が切れるかと思う程苦しい。体がものすごく震える。寒い。顔と手が痛い。(焼けていた我が艇に居た時動かなかった為、顔と手を大ヤケドしていた。皮膚は焼けタダレ、マツ毛マユ毛は焼けてハレてきていた。)

助かって良かったとも戦友はどうしたとか他を思う気持ちのゆとりはなく、唯々水が欲しい、水が飲みたいそればかり。その時、米軍医がブドー糖らしきものを注射してくれた。終る頃に大分震えが止って来た。タンカの上から周囲を見るとそれは駆逐艦の病室であった。鈴木君と川野君も共に片脚に大きな負傷をしていた。治療をしている時に日本語ベラベラの通訳の将校が来た。「アナタの足は両脚共もう役に立ちません。よろしかったら手術をさせて下さい。後の事は心配する必要は有りません。義足を付ければ上手に歩けるようになります。」と説明して呉れた。「勝手にしろ」と小生は答えた。この言葉をみて皆様はどのように思われますか。生命を救って呉れたのに!! 思はれるのも無理はないかと思います。当時の日本の軍部の宣伝していたのは、米英専滅、鬼畜撃滅、非情な米軍は捕虜になった日本兵はなぶり殺しにする。女は遊ぶ。と徹底的に国民に宣伝していた。故に国民は最後の最後まで闘おうと思い込み、竹ヤリを持って米兵が上陸して来たら突き殺してやると藁人形を突く訓練をしていた位である。故に親切にしてくれる米軍医に向かっても「勝手にしろ」などと言えたと思う。親切な事を言っていても最後にどういう殺し方をするかと思い込んでいた。「勝手にしろ」という言葉を聞いた通訳の将校が「アメリカはアナタ方を殺しません。安心して下さい。」と問ひかけてくれた。びっくりした。今まで、今日まで聞かされて又教育されてきた憎くいアメリカとの違いである。実に親切である。どの米兵も軍医も。艦内から米兵が大勢周囲に集って見ている。「これから手術をします」と軍医が背中に注射をした。約二時間位で目が醒めた。その時足の方を見てびっくりした。と言うより本当に悲しくなった。両足がない、その時のショックは一生忘れないと思う。

船の病室は狭い為、手術や治療を終えた私達は隣走していた二万トン級の航空母艦に移された。母艦に着いたその時である。急にサイレンがけたたましく鳴り出した。顔面蒼白の米水平が配置に着く。着くと同時に全艦の機関銃が一斉に撃ち出した。何十機有るのか判らぬ機銃が一度に撃つのだからもの凄い音である。耳をつんざく音である。機関銃の横にいた小生のタンカの処まで薬キョウが飛んでくる。約五、六分間続いた。静かになった。不審に思っている時、日本語が判らぬ水兵が「カミカゼカミカゼ」と言っている。だとすると、艦体めがけて突っ込んできた友軍の特攻隊の攻撃機である事が判った。おそらく若くして動員され、九州の基地から発進した特攻隊の友軍機と思う。航空母艦に突っ込んで壮烈な戦死を遂げた戦友の勇ましさと冥福を祈りつつ…。

其の後、航空母艦にて治療を受けながら南下途中、何度か輸送船に移される。そして着いたのが小さな島ヤップ島と思う。小休止の後飛行機に乗り換えグワム島の野戦病院兼用の収容所に入る。暑い暑い闘病生活が始まった。蒲鉾型の病室とヤシの葉で作った兵舎である(約一ヶ月位治療を受けた後輸送船にてハワイオアフ島の病院に移されるとの情報を聞かされていた)。グワム島の収容所にはジャングルで捕虜になった兵隊や女性が多数居た。女性などは髪を刈り丸坊主。男の姿でした。米兵を警戒しての手段との話、或日二名の将校と兵士が息絶えだえに連れ込まれた。空腹の為米兵が置いたネコイラズ入りの大麦を食べたらしく、二名とも苦しんだ揚句一時間位で征った。まことに無惨な最期であったが氏名は判らない。他に暑さの為疲労で倒れる者も多く居た。

一ヶ月位の月日が過ぎハワイ島へ移る為船にて出発、昭和二十年六月八日にハワイオアフ島の海軍病院に着く。窓からは真珠湾が良く見えて居た。院内には硫黄島やサイパン、グワム、沖縄、又洋上で救われた重症患者ばかり。百名位は居たと思う。医師及び衛生兵は誠に親切に扱ってくれた。米軍の通訳が内地の様子を教えて呉れたがその時点でも日本が負けるなんて夢想だにしなかった。必ず神風が吹き日本は勝つ!と信じていた。ハワイタイムズやハワイ報知新聞が毎日B29が本土を猛爆して焦土と化している様子を報道しているのに信じる事は出来なかった。二ヶ月余り過ぎた昭和二十年八月十四日、突然院内マイクが「重大発表が有るから聞いて下さい」天皇陛下の敗戦の玉音放送に耳を疑った。まさか。患者のすすり泣く声が聞こえる。絶対に勝つと信じ命を捧げて戦って来た同志の心境は皆同じだった。但し信じるより仕方がない。その時の思い出は今も忘れない。再度二回目の両足切断の手術を受け元気になりオアフ島内にある収容所に移る。そこにはイタリヤの捕虜も居た。一週間位居てから又別の収容所に移った。その収容所にはアメリカ本国で綿摘み等の作業をしていた日本兵ばかり九千人位居たと思う。確か小生の捕虜番号PW.9439号だったから。収容所内で戦勝を信じている組と敗戦を信じている組との命がけの乱斗も有ったが、当時の情況としては当然と思う。

愈々内地に復員する時が来た。第一回目が昭和二十一年九月出港。小生は第二回の二十一年十月の出港でした。港まで送って呉れた水平ジャクソン上等兵と泣いて別れた。肉親との別れと同じ気持である。ハワイの病院生活一年四ヶ月間に両足義足まで作って貰い元気になり復員できたのも、親切にして呉れた軍医、看護婦又慰問に訪れて下さったハワイ在住の劇団の皆さんの激励のお陰です。心より感謝申し上げたい。

内地到着は浦賀、昭和二十一年十一月三日。手続、検疫を済まし翌日帰郷。故郷では公報が入って葬式も済んでいた。

以上、長々と当時の記憶を綴りましたが、乗組員の皆々様の名前が全々判らない為個人個人の最期の情況をご報告が出来ないことが一番残念です。理由は出撃一日前に司令部の命令で乗船、出撃した為、氏名を覚える暇が無かった。

以上で報告を終ります。


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