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【読切★完結】不器用な雨

♯1 兄のジャケット

入社の春から梅雨へと、季節が移ろいゆく。

週末の夕暮れ、愛は見慣れない駅へと足を運んでいた。
天気予報では、ついに梅雨明けだという。

目的の老舗クリーニング店は、閑静な住宅街の奥まったところにあった。

店内に入り、引換券を差し出す。
愛が店内の様子を伺う限り、ほかの客の姿はなく、静けさだけが漂う。

外を眺めると、どこか曖昧な夕刻の空に、鈍い灰色の雲が小さく浮かんでいた。

ここ数日の長雨の名残か、蒸し暑い空気が肌に纏わりつく。

店内のクーラーで寒さを感じ始めた頃、店員がカウンター越しにジャケットを見せてくれた。
右肩には「愛」の文字が、丁寧に刺繍されている。

趣味が良いとは言えない刺繍だ。
妹の名前なのかは定かではないが、確かこの「愛」の一文字が入ったジャケットは、兄のバンド衣装だったはずだ。
サインをして受け取り、愛は静かに店を後にした。

もう6年以上も前のことになる。
兄がプロのバンドを始めることを記念して手に入れた、特別な一着。
バンドへの情熱が高じて誂えた特注のジャケットだった。


♯2 再会の日

愛の家は、住宅街の奥まったマンションの一室。

クリーニング店から電車を乗り継ぎ、帰り着いた頃には夜の帳が下りていた。
夜空には薄雲が流れ、その合間から満月が静かに覗いている。

鍵を差し込み、玄関の扉を開く。

照明をつけた途端、棚の上の写真が目に入った。
そこには兄妹だけの家族写真が飾られている。
兄とケンカ別れする前の、あの頃の笑顔が切り取られた一枚。

高校時代から話題を集めていた兄は、バンドのボーカリストとして頭角を現していた。
誠也がプロへと転身したのは、確か高校卒業と同じ時期だったように思う。

どこか兄の輝きを羨ましく思っていた愛は、些細なことでケンカを仕掛けてしまった。

あの喧嘩の翌日、誠也は黙って家を出て行き、そのまま疎遠になったのだった。

兄妹の間には生存確認程度の連絡だけが、気の進まないまま交わされていた。その状態が2年も続いた。
意地を張る性格が似通った兄妹は、互いに仲直りのきっかけを見出せないまま、関係を拗らせるばかりだった。

冷えきった関係の中でも、誠也は妹への仕送りだけは欠かさなかった。
愛もアルバイトで生活を支えながら美大を卒業し、広告デザインの会社への就職を決めた。

新しい生活が始まったこの春。

愛は現実的で堅実な道を選んでいた。
けれど、本当にやりたかったことは別にあった。
大人らしく振る舞う自分に、どれほどの意味があるのだろうと、愛は問いかけずにはいられなかった。

そんな妹の迷いに気づいていたのか、久しぶりに兄から「報告がある」との連絡が入り、再会の約束を交わした。

「結婚でもするの?」愛がそう尋ねると、兄は電話越しに軽く笑って否定した。

しかし、その約束は思いもよらない形で果たされることとなった。
それは、誠也との永遠の別れを告げる場となったのだった。


♯3 ひと月の時間

兄は車にはねられ、即死だった。
警察の話では、道路に飛び出した子供を助けようとしたのだという。

愛は現実が現実として受け止められないまま、ただ呆然と葬儀の一部始終を過ごした。
兄の事故から葬儀までの間、連絡が取れる範囲は著しく限られていた。

兄の携帯は電源こそ入っていたものの、着信を受けることしかできない状態だった。
そんな中、親友だと名乗るハヤトという男性から着信があったのは不幸中の幸いだった。
兄の関係者への連絡は彼に一任したが、その後の詳しい状況までは把握できていない。

愛が新居に移り住んでから、一か月が経っていた。
世間では注目のバンドのボーカリスト急死として話題になっていたその人物が、まさか誠也だったとは。
愛が知った時、言葉を失った。

兄が報告したかったことは、きっとアニメの主題歌に採用が決まった知らせだったのだろう。

その事実に喜びが込み上げると同時に、より深い喪失感が愛を襲った。
心にヒビが入り、そこから何かが滲み出て止まらないような錯覚に陥る日々。

梅雨入りを迎える頃、兄のバンドの新ボーカルとしてギターのハヤトが迎えられることが発表された。

会社の最寄り駅前の大型モニターに、その告知映像が流れるのを幾度となく目にした。
ふと思い当たった。
兄の亡くなった日の着信は、このハヤトからだったのかもしれない。

兄の自宅の整理に着手したのは、ついこの間のことだった。
わずかな荷物の中から、一枚のクリーニング店の引換券が見つかった。

今日、ようやく勇気を振り絞ってクリーニング店へと足を運んだ。

受け取ったジャケットを紙袋から取り出し、おそるおそる袖を通す。

鏡の前に立った愛の目に映ったのは、少し大きすぎるジャケットに包まれた不格好な自分の姿だけ。

兄の面影を探したものの、そこにあるのはただのジャケットでしかなかった。


♯4 翠雨


翌日は快晴だった。愛は再びクリーニング店へと足を向けていた。

昨夜、兄のジャケットに袖を通した時に目にしたクリーニングタグ。
そこには見慣れない名前が記されていた。

「藤井隼人」

気になり、店員に確認してみた。
兄の持ち物だと思い込んでいたものが、バンドの衣装となると話は別だった。
もしかしたら、隼人の物なのかもしれない。

店員は、誠也が隼人の名前でクリーニングを利用していた可能性を示唆し、その場で電話をかけた。
その日の夕方、隼人は半ば強引に愛との待ち合わせを取り付けていた。

隼人の指定したカフェは貸切状態だった。
店内の隅で、彼が静かに待っていた。
テーブルの脇には、ケースに収められたギターが佇んでいる。

愛が席に着くと、隼人は遠慮がちな微笑みを浮かべて言った。

「ここ、誠也がよく来ていた場所なんだ」

その言葉に、愛は静かに頷いた。

隼人は穏やかな口調で語り始めた。

愛が来てくれて本当に良かったこと。
誠也とは親友でバンド仲間だったこと。
誠也が妹とケンカして隼人の家に転がり込んできたこと。

そして、兄への電話後に電源が切れ、今日まで連絡が取れずにいたこと。

誠也は隼人のマンションを借りながらも、半同居のような生活を送っていたという。

誠也が他人の家の物を我が物のように使っていたことを、隼人は懐かしむように笑って語った。

特に、隼人の名前でクリーニング屋の割引を散々使い込んでいた話に、愛も思わず笑みがこぼれた。

刺繍入りのジャケットは、やはり誠也の物で間違いなかった。

「初のヒット曲が出たら、妹に聞かせてやりたいって話してたよ。頑張ってたんだ。素直じゃないよな」

愛は驚きとともに、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
その言葉には、兄の不器用な優しさが滲んでいた。

「翠雨。アニソンになったヒット曲、誠也の最後の曲なんだ」

そう告げると、隼人はギターケースを開けた。
楽器を取り出し、兄の遺した最後の曲「翠雨」を奏で始めた。

二人だけのカフェで、窓の外は晴れわたっているのに、愛の鼻には雨の匂いが漂い、目からは雨粒のように涙が零れ落ちた。
兄の歌詞は隼人の歌声と溶け合い、愛の心に降る翠雨となった。

愛は堪え切れない涙を見られたくなくて、手で顔を覆ってもその悲しみを隠すことは出来ない。
曲が終わり、隼人はギターを置くと、そっと愛の肩を抱き寄せた。

隼人も胸を締め付けられて堪らず、愛を抱きしめていた。
愛は隼人の肩に顔を埋め、声にならない嗚咽を押し殺した。
愛はそっと顔を見上げると、隼人の切ない笑顔があった。
沈黙の間が幾分がの間の後、優しく顔を引き寄せられ、二人の影が一つに重なる。

——雨はやみ、虹が輝くのさ

最後の歌詞が心に響いた。
兄の優しさと、新たな恋の予感に包まれながら、愛はそっと目を閉じた。

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