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わかっているようでわかっていない!?私立大学と国立大学の異文化理解を推進しよう。

以前、noteで「名古屋六大学トップメッセージフォーラム」というイベントを取り上げ、学長メッセージはつまらなさそうに見えて(実際につまらないこともあるけれど)、実は大事なものなんだよ、ということをまとめました。今回、同じ取り組みを見て、まったく違うことを思ったので、あらためてそれについて書いてみようと思います。

今回、書きたいことの結論を先に述べてしまうと、国公立と私立のゆるいつながりを、今つくっていくことが、実はとても大事ではないかということです。ちなみに「名古屋六大学~」は、名古屋の名門国公私立大学の学長たちが一堂に集まる、ゆるやかな国公私立合同イベントです。

それで、このようなことを思うのは、現在、文科省主導のもと「大学等連携推進法人(仮称)」の導入が盛んに議論されています。これは、ここ数年話題になっている大学連携や統廃合の一つの手法で、国公私立大学の枠を超えた一般社団法人をつくり、その法人をもとに連携するという取り組みです。

この取り組みには、さまざまな可能性があり、考えようによっては、私立大学の下克上的な使い方もできそうで、とても興味深いと思っています。ですが、その反面こんなこと本当にできるのかと疑問にも思うのです。というのも、私は私立大学と国立大学、両方のお仕事をさせてもらっているのですが、この二つは似て非なるものというか、ものすごく違います。国立大学は“教育もする研究機関”で、私立大学は“研究もする教育機関”です。そもそもの役割から異なるように感じるのです。

たとえば、私立大学と国立大学のトップである、早稲田大学と東京大学の学部生と大学院生の比率を見るだけでも、この違いはすぐに感じ取れます。

早稲田大学学生比率

東京大学学生比率

ほら。早稲田の場合は、学部生と大学院生の割合はおよそ8対2ですが、東大の場合はなんと1対1、厳密にいうと大学院生の方が少し多いんです。この比率の差から、両大学(さらに言うと私立大学と国立大学)が研究および研究者育成に対して、どんなスタンスで取り組んでいるのかがわかります。「学生獲得」というと、私立大学の場合は当然のように学部生の獲得をイメージしますが、国立大学(とくに旧帝大)の場合、また違うイメージを持っているのではないでしょうか。

さらに、私立大学の教育(とくに文系)は、あくまで社会に出る前の学びであり、4年後に社会に出ることを前提に、そこから逆算的にデザインされているのが一般的です。一方、国立大学の学びは、あくまで学びのための学びであり、その先にあるのは、より深い学び(=研究)です。

「学生獲得」であれ、「教育」であれ、大学の根幹と関わるキーワードなのに、言葉が意図する内容も意味も私立大学と国立大学ではけっこうな違いがありそうです。そしてこれは一事が万事で、他のいろいろなキーワードにも同じようなズレがあるように感じています。

企業と大学のように、そもそもの文化が違う前提でコミュニケーションをとる場合なら、ゼロからお互いを理解しようと思えます。でも、私立、国立の違いはあれど、同じ「大学」であり、同じ専門用語を使ってコミュニケーションが取れている。でも、実はビミョーにそこから得ている理解や認識が違うというのは、まったく知らないことより何倍もやっかいです。

普段から接点が多くあるなら、こういう違いも徐々に埋まるように思うのですが、私が知っている限りでは、私立大学と国立大学の職員が交流する機会はそう多くありません。現場がそんな状況なのに、今後、トップや上層部主導のもと、私立と国立が同じ法人になる、ということが現実に起こりえるかもしれないし、国がそれを推奨していく可能性も十分にあり得ます。

大学が連携すると、良くも悪くもその大学がある地域に大きな影響が出ますし、所属する学生にとっては人生に関わる一大事になります。この大きな変化がいつ起こってもいいように、今から草の根レベルでゆる~いつながりをつくり、異文化交流を進めておくというのは、とても大事なことではないでしょうか。場合によっては、そんな交流がきっかけとなり、他大学を出し抜く大きな大学連携が生まれることだってあるかもしれません。こういう動きを考えている大学があれば、ぜひ応援したいです。


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