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理由は後からついてくる 〜ママさん読者と「私が文章を書く理由」〜

「誰かのため」は、ときに、自己陶酔という名のマスタベーションへと姿を変える。

文章を書く不純な理由

私はなぜ今日も文章を書くのだろう。

snsでイイねをもらえると嬉しい。
noteでスキやフォロワーが増えるのも嬉しい。
「誰かのため」なんていう大義名分も無くはない。

でも、それだけの理由で私は文章を書いているのだろうか?

正直に言う。

そもそも移住を機にnoteをスタートさせたのは、自分をとにかく宣伝するためだ。
これはきっと自分が独立するときの素地となるはずだから、と。

また、そこはかとなく現れる自分の「承認欲求」を満たすためでもある。

そして、自分の感情を言葉にするのに時間がかかる私は、「誰かのため」ではなく、他ならぬ「私のため」に、自分の思いや気づきをひたすらに文章として記録していこうと決めた。
読者の方には申し訳ないこと極まりないが、文筆はときに「誰かのため」という輝かしい願いを建前にした、

自己陶酔という名のマスタベーション

のときもある。

私は文章を書くという行為に、自分の中から湧き出る不純な理由を否定できない。

私という存在は、「誰かのため」を悪用し、自己の快楽を生み出そうという極めて卑劣な存在なのだ。
性根がさもしい人間なのだ。

ただ、理由はあとからついてくることもあるらしい。

「理由や意味なんて後からついてくるものよ」

とある助産師の女性は、以前、私にこうアドバイスをくれた。

「理由や意味なんて後からついてくるものよ」

出産という命の最前線で、彼女は何を感じているのだろう。きっとそこには喜ばしい「生」もあれば、哀しみに暮れる「生」もあるだろう。なんなら遣る瀬のない「死」もあるのだろうか。

ここまで思いを巡らせた私であったが、残念ながら、私は彼女の発言を理解できなかった。

なぜなら、何をするにしても、理由がなければ動けない、また動くことを禁じられる社会の雰囲気に飲み込まれていたからだ。
そうして、私自身も「理由」を貪ることを生きがいとしていたからだ。

私には、

「それ、何のためにやってるの?」

と私自身に、そして周囲の人間に「理由」を常に問い続けてきた過去がある。

だからこそ、理由や意味が後からついてくるなど、にわかには信じがたかったのだ。

高校生の息子と母親

そのような私に、先日、実家の母から電話があった。
高校生の息子を育てる母の友人が、私の記事を読んでくれたという。

どの記事を読んだかは分からないが、その方は私の記事を読んで、

「息子を否定しなくていいんだ、と腑に落ちた」

らしい。

どうやらその方は、高校生の息子の言っていることが

「よくわからなかった」

とのことだ。そのため、すれ違いも絶えなかったようである。

理想に心を燃やしながら、他方で眼前に迫りつつある現実に辟易としなければならない高校生の言葉は、きっと親には理解し得ない部分があるのだろう。
私自身も高校生のとき、親の言うことを全て受け入れられたわけでは無かった。逆もまた然りである。
親と子が衝突するのは想像に固くない。

しかし、母が腑に落ちてからは、息子はこんなことを言うようになったという。

「お母さんなら、いろいろ話そうかなと思うわ」

息子はふとした出来事を母に何かとに報告するようになったようなのである。

少しだけではあるが、どうやら私の文章は親子の会話を生み出す力になれたのかもしれない。

私は自分の文章から、こんなエピソードが生まれるなんて、全く予想だにしていなかった。
なぜなら、私の文筆は、ときに、自己を慰める行為だったからである。

読者が教えてくれた「私が文章を書く理由」

理由がなければ動かない私を文筆に突き動かしてきたのは、「不純な理由」に他ならない。

しかし、この親子の一件を耳にして、文章を書く新たな理由が見つけた気がしている。

私は文章に書くにあたって

「たった一人でも、他人様の心が豊かになってほしいから」

と思ってもいいのではないか。

もはや自分から「誰かのために」また、「誰かの心を豊かにしたい」なんてことは、思わない。

私の知らないところで、いつの間にか、誰かが心豊かになってくれれば、それで十分なのだ。

他方、私は今後もイイねやフォロワーの数に一喜一憂し、自己陶酔にまみれたマスタベーションを投稿するのだろう。

ただ、今の私なら、左様な不純な私を浄化してくれるのは、他ならぬ読者の気持ちや感情、つまりは読者の心なのだと理解できる。

読者の豊かな心にこそ、私が文章を書き続ける理由が眠っているはずなのだ。

だからこそ、理由がいくら下劣でも、文章を書くことをやめてはいけないのだと思う。

それは息子を持つ母が「息子を否定しない」ように、私自身が「不純な私を否定しない」ことでもある。

文章を書くことに、理由や意味を付与するのは自分だけではない。

読者もまた、私が文章を書くことに、理由や意味を与えてくれる存在なのだ。

つまり、理由はあとからついてくる。

ーーー

noteを始めてからというもの、他にも、

私と同じようなパワハラに悩む友人から連絡が来たり、
「自分もいろんなことにチャレンジしてみたいと思いました」というようなコメントを見知らぬ人からいただいたり

と、想像もしていなかったことが起きています。そんなときはシンプルに

「書いてよかった」

なと思うのです。
内容によっては、恥じらいや躊躇いを乗り越えないと投稿できない記事もあるので、このような出来事は本当に自分が文章を書く原動力になっていると思います。

他方、文章を書くことを続ければ続けるほど

「何のために書いているんだろう?」

と自問自答をすることが多くなるのだと思います。また忙しくなればなるほど、文筆は雑になりがちです。

でも、そんなときこそ、また助産師の女性の

「理由や意味なんて後からついてくるものよ」

という言葉を思い出して、ペースを落としてでも、じっくり文章と向き合って行けたらなと思っています。

今後も不純な私ではございますが、何卒、私の書いた文章をお読みいただければ嬉しいです。

宜しくお願い致します。

今回も、お読みいただきましてありがとうございました。

もしよろしければ、島へ移住した理由をこちらから。
もちろん、島へ移住した理由は、島に来た後にも沢山見つけています。

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