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謙虚さを悪用する

チャレンジしない理由を謙虚さに求めている気がして。

他者からの称賛

「私なんてそんな」

こんなことを口にすることは多々ある。
他人から褒められたとき、何か名声を得たとき。

他人からの称賛をそっくりそのまま受け取るというのも、バツが悪い。

だからこそ、褒められて嬉しい気持ちの傍らで、どこかこのような言葉で自分を卑下する素振りをする。

卑下するとはいったものの、隠し切れない嬉しさを含んだ柔和な表情はどこか微笑ましいものでもある。

身の程をわきまえる

「私なんてそんな」

を使う場面、それはもう一つある。

失敗が怖い時だ。
実現できるかわからない。
失敗するくらいならチャレンジしない方がマシだと考える。

そんなときにも、

「わたしなんてそんな」

と口にすることもある。

そのような姿は「身の程をわきまえている」とも言えるかもしれない。

ただ、先ほどの謙虚さとは違って、微笑ましいと思えないのはなぜだろう。

言い訳としての謙虚さ

それはおそらく謙虚という言葉で、
「できない自分」を隠そうとしているからではないか。

「私なんてそんな」と発言することで挑戦しないで済むならば、少なくとも失敗することはない。
だって、チャレンジすらしていないのだから。

失敗し、馬鹿にされる。
そんなを味わう必要もないのである。

ただ私は思う。
失敗したくないからと、「謙虚なフリ」をするというのは、どこか卑怯ではないか。

謙虚なフリをするくらいなら、思い切って失敗している人の方が清々しく感じるのは気のせいだろうか。

謙虚さを悪用する

謙虚さが謙虚さたるのは、そこにチャレンジが伴っているからだ。

自分を卑下することと謙虚であることは同じではない。

謙虚であるとき、それには大きくなった自分を戒める意味がこもっている。
今回の成功に甘んじることなく、次なる高みを目指せと言わんばかりに。

謙虚なフリであるとき、自分は何も成長などしていない。
現状に甘んじ、自分を小さくみせることで挑戦を回避するのだ。

挑戦しない理由を謙虚さに求めてはいないか?
挑戦しないことを謙虚さによって美化しようとしていないか?
恥を恐れて謙虚なフリをしていないか?

そう、つまり、謙虚さを悪用していないか

本当に謙虚な人ならば、きっと、
「わたしでよければやらせてください」とチャレンジすることだろう。

ーーー

心の中で本当はやってみたいと思っていることでも、「わたしでよければやらせてください」とはなかなか言えないですよね、と書きながら思っていました。

もちろんやりたくないことまで「わたしでよければ」なんていう必要はないとは思いますが、
いざという時にチャレンジから逃げない強い気持ちを持ちたいものだなと感じるのです。

謙虚さの悪用は私もよくしてしまいますし、
それをしている人もたくさん見かけます。

これは出る杭は打たれる風潮のせいなのか?それとも個人の意思が弱いのか?

原因は不透明です。
とはいえ、不透明だからこそ、思い切ってチャレンジする心意気が大切なんだとも思います。

もちろんチャレンジしたからには、それに甘んずることなく、

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

で謙虚に生きていきたいものですね。

というわけで、本日はこれまで。
私は今やホラを吹きまくって生きているので、ここはひとつ、たまには謙虚に日々を歩めたらなと思います。

ご清読ありがとうございました!
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