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言葉を積む 〜観光学との向き合い方が私に教えてくれたこと〜

積み方が変われば、山道の起伏、そして山の形さえもが常に変わっていくはずなのだ。

掘ること

何かを極めようと志すとき、私たちは常に「掘って」はいないだろうか。より厳密に言えば、堀り下げてはいないだろうか。

無論、掘り下げることは極めることであろう。それを職業としている人として、研究者が居る。

たとえば、歴史学者の中には、鎌倉時代の書について異様に詳しい人がいる。また数学者には、なぜか√(ルート)に心奪われている人がいる。私からすれば、彼らは迷いなく掘り下げる人々である。

きっととにかく一直線に掘って掘って、そこにある宝を掘り当てるのだ。少なくとも大学四年生の狭い視野ではそう思っていた。

観光学とは何か?を問う

さて、私自身も結果的には大学院で修士号を取るのだか、かつては自身の興味を持った領域、観光学について研究できる自信がなかったのだ。

つまり、観光とは何か?を問い、またそれに対する論理的な結論を導く方法が全く見えていなかったのである。

私は観光学部という学問的には新しい領域で学士時代を過ごした。にもかかわらず、誰も観光とは何かを教えてくれなかったし、研究者の中にはそれを定義しようということが野暮であるという教授までいた。
それが野暮かどうかはともかく、直線的な思考しか持たない大学四年生の私はその定義がなされないことに不安を持っていた。

これはひとえに観光学という領域が極めて横断的な性格を持っているからである。たとえば、観光をビジネスから論じようとする者はもちろん、他にも農業や哲学、アニメや宗教なんて視点から観光を論じようとする者も居る。また逆に、すでに存在する学問領域に多少なりとも蓄積された観光学としての見地で切り込んでいく者も居た。

このような様を大学という空間で見せつけられれば見せつけられるほど、私は自分が観光の何を掘り下げればいいのか、はたまた何を観光で掘り下げればいいのかが分からなくなったのである。

螺旋を描いたその先に

それでも漠然と大学院に進み、観光学で修士号を取ろうと志していた大学四年生のある日、ある教授の一言で私はすこぶる納得することになる。

「たぶん観光学って掘り下げる学問じゃないと思うよ。いろんな視点から吸収した知見を螺旋状に積んでいくみたいな話で。結果的に積んだ山の頂上にある何かを求めたり、はたまたその詰んだ山の形から何かが見えてきたり」

つまり、掘るのではなく、積むことこそが観光学が研究領域として成立する在り方だったのだ。私は研究者という存在を、何かを極めた人、もしくは極めようとする人であるがゆえに、ずっと何かを掘り下げ続ける人だと思っていた。

しかし、そんな彼から積むことの意義を説かれたとき、私はとても安心したものである。なぜなら、私が「観光とは何か?」を考え続けるために右往左往すること自体が、螺旋状に何かを積むことに繋がるような気がしたからだ。

結果的に私は大学院では、広島の原爆体験の継承を観光から論じるという立場を取った。これは既存領域を掘り下げるだけでは見えてこない視座があるはずだと考えていたからである
原爆体験、広く言えば戦争に関する何かを論じるのには政治学や歴史学が昔から中心領域として存在するわけである。それでも、そこに観光から切り込むことを是と思えたのは、まさしく先の教授の言葉のおかげである。

言葉を積む

今は研究から離れて久しいが、きっとこの螺旋状に積み上げる試みは、学問でなくても多くの場面で活かされるものだと思っている。

特に原爆体験を受け継ごうとする人たち、すなわち被爆二世の姿を見てそう思った。被爆二世は原爆を直に知っているわけではない。
しかし、知らないからこそ多くの被爆者の声に耳を傾けていたり、そしてその一つ一つを反芻する姿が広島にはあった。観光学を通して彼らをみつめることで、彼らは被爆者の言葉を何度も何度も積み直しているように見えたものである。

私自身も多くの人から沢山の言葉をもらってきた。中にはもうこの世にいない人もいるし、名前も連絡先もわからない人もいる。
でも私は絶望しない。なぜなら、今の私も、被爆二世たちのようにもらった言葉を反芻し、何度でも積み直せるからである。掘り下げることしか知らない私なら、人が消えていくという現実に絶望しなければならないだろう。なぜなら、掘ったその先には何も存在しないのだから。

学問的な知見だろうが、二度と会えない人からもらった言葉だろうが、その積み方は無限にあると私は思っている。
そして積み方が変われば、山道の起伏、そして山の形さえもが常に変わっていくはずなのだ。だからこそ、積むことにはきっと意義があると思えならない。

積み方を変えれば、常に新しい何かが見えてくる。

ーーー

「観光とは、自己という他者と巡り合う営み」

という私なりの一つの結論を今は心の中に持っています。ただこの話もとても長くなりそうなので、また別の機会に。

もしくは7月1日に宿がopenしたら島まで遊びに来たついでに話を聞いてやってくださいませ。嬉々としてお話させていただきます。

というわけで本日はこれにて。

ご清読ありがとうこざいました。



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