私の「働く」は、暇つぶしに過ぎないのか?~働かないを哲学するために~

何のために働くのか。この問いはいつまで続くのだろう。

いま、私は個人事業主である。 そのため、働いたからと言ってカネが手に入るということは約束されていない。
この単純すぎる事実は私の人生において大きなパラダイムシフトとなっている。 なぜなら、これまではバイトにせよ、正規雇用にせよ、働けばカネをもらえていたからである。

最近の私はというと、畑仕事に精を出しているが、目の前で管理している作物がいくらのカネになるのかはまだ未知数である。 もっといえば、そもそもあくまで販売は予定であって、カネが入ってくることが確約されているわけではない。

これは先日の大雨で、一部の作物の棚が壊れてしまったときに強く思った。 すなわち、いんげん豆の話なのだが、彼らの3か月の成長が地に這いずるのは一瞬だった。 

この時以来、私はこのごろ、よく思う。
私はいま、働いているのだろうか。

最近は自己実現が強く叫ばれるようになったためか、「カネのために働く」なんていう意見が少し蔑まれた目でみられたりもする。 ただ、私の現状からすると「カネのために働く」は数ある真理の一つでもある。

さまざまな未来を夢想はしてみるが、それと同時に日銭を確保するという最低ラインの目標もある。 その目標はまさに「カネのために働く」に近しいものでありはしないか。 なぜなら、カネの発生が不明のままでも活動するという行為は、誰かのためのボランティアではないからだ。
ボランティアではない、すなわちそれは有償である。だからこそ、 このとき、私の犠牲は私のためにある。

 働くことは人生でもっとも有意義な暇つぶし、なんていう表現を最近知った。暇つぶしでカネがもらえるのならと思えるのかもしれないが、「カネがもらえる」と思った時点で働くはカネよりも先んじてその存在があるように感じられる。

そうであるならば、カネが確約されない私の働くは、もはや暇つぶしに過ぎないのかもしれない

だとすれば、働くという議論は人生を豊かにしていくというような理想論からだけでなく、カネを得る手段としての現実論としての視点もやはり見失ってはならないように思えてきた。

それが嫌というのならば、「働かない」という可能性をより深く探る必要がある。なぜなら「働かない」はカネと働くの関係性を根元から否定する行為だからである。

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先日、哲学者ボードリヤールのことを思い出すことがありました。私たちの働くは、ただカネを回すための装置に過ぎないのでしょうか。彼の考えを借りれば「よりよい記号をひたすらに消費するため」に。

ニートになれといっているわけではありませんが、思考実験的には、主体的に働かないというニートの状況はボードリヤールが唱えた資本主義のカネの輪廻に一石を投じる生き方でもあります。(もちろん何らかの理由で働けないという方を指してはおりません)

それよりも、そんなことを考えている間に、働けって話ですかね?

というわけで本日はこれまで!
ご清読ありがとうございました!

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