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SDGsな暮らしと私の”ケチズム”

ここ数年、見よう見まねではあるが自分で包丁を研ぐようになった。
そんな話を知人にすると

「めっちゃSDGsな暮らししてるな」

なんて言われてしまったのだ。

SDGsに配慮して暮らしているという自覚もなければ、そのように暮らそうとしていたわけでもない。だからこそ、今流行りのSDGsはこんなにも身近にいるのかなんて思ったものである。

私が包丁を研ぐのは、新しい包丁を買うと高いから。少し考えてみると、割とすぐに、包丁のメンテナンスを行う理由が出た。

そうだ、私はそもそもケチなのだ。ケチだからこそ、モノを長く使うのである。高邁な思想などそこにはない。ただ何となく節約が嫌いでないだけなのだ。

今思えばSDGsなんて言葉は、ケチという言葉で一括できる。電気代を節約するためにこまめに電気を消す。いつもの買い物を車ではなく徒歩や自転車で移動すれば、ガソリン代が浮いてくる。そんなケチなライフスタイルは、現代社会が渇望する持続可能な世界と瓜二つである。

だからこそ暮らしの中でケチになれるところを探していく、すなわち”ケチズム”の広がりこそが、多くの人間にとって最も卑近なSDGsへの実践になると思えてならない。

SDGsは突然田舎で地域おこしを始めることでも、全身を薄色のリネン服でコーディネートすることでもない。

目の前の小銭をケチるために、スーパーのレジ袋は使わず、水筒を持ち歩き、そして包丁を研ぐのだ。そんな卑しくも清貧な実践の集積こそがSDGsに配慮した生活と思えてならない。

”ケチズム”はきっと私に小銭もたらすだけでなく、世界中を動かす力になる。


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