「ファン」と「好き」の線引きを教えてくれないと「ガチのファン」に殺られる

 世の中には芸能人とか、女優、俳優、漫画家、作家、アーティスト、芸人、画家、声優、アイドルなどなど、本人や本人の作り出したものが多くの人の目に触れる職業がある。彼らは自分たちの武器――顔とかスタイルとか声、作品とか発想――を手に、多くの人を魅了しようとする。それは人に感動を与えたいとか、人生を豊かにしてもらいたいとか(少しいやらしいけれど)お金のためとか、様々な思いのもとに行っている(であろう)もので。それは実際多くの人を魅了している。まあ僕も魅了された中の一人なのだけれど。

 これ以上書くと前置きがとんでもなく長くなりそうなので、省略して本題に入る。そういった芸能人を好きになって追いかけるようになると、一般的にその人を「ファン」と呼ぶようになる。好きな対象によって呼び方が少し変わる場合はあるけど、まあ一般的にね。ここからが長年考えていたことなんだけれど、いったいどのくらい好きになれば「ファン」って名乗っていいの?ここでは音楽アーティストの「ファン」を例に考える。

 もちろん「好き」は数値化できるような要素が一切ない曖昧な感情であることは十分に承知している。でも、「ファン」と名乗ることと「好き」ということには明らかな違いがある――僕の中では――。はじめに書いておくけれど、その力関係は「『ファン』>『好き』」だ――何度も言うけど僕の中ではね――。「マニア」とかもあるけれど、ここではいったん無視させて。そうでないと文章量がとんでもないことになりそうだから。

 明らかな違いがある、と書いたけれどそれについて。例えば、僕はロックバンド、ポルノグラフィティのファンだ。その歴は決して長いものではないけれど。ほぼ全曲そらで歌えるし、ライブは何度も行った。だから自分で「ファン」と名乗る。そこにはポルノグラフィティへの愛がそんじょそこらの人には負けないという自信があるから。それに対して、同じくロックバンドのBUMP OF CHICKENは「好き」だ。確かに彼らの作る曲は最高にクールだ。隠しトラックにみられるお茶目さも彼らの魅力の1つ。曲だってよく聴く。しかし「好き」だ。なぜか。ライブには行ったことはないし、そらで歌えるのは正直片手で足りるほどだ。そんな状態で「ファン」と名乗るのは「ガチのファン」の人々に失礼だと思うからだ。ライブに行った回数や、知っている曲数、つまり「体験や知識の量」がその人をファンたらしめると言いたいわけではなくて。まあそれも1つの愛の指標にはなるとは思うけれど。心の底からその対象を求めていて、それの持つ力に一喜一憂する。その状態になれるかってところで明らかな違いが生まれる。と思う。

 で、なんでその線引きを教えてほしいのかというと。例えば、僕がAというアーティストが「好き」だとする。そして同じAの「ファン」の友達と、Aについての話を初めて話すとしよう。そこで線引きを知らない自分が「ファンだ」なんて言ったとしよう。するとこうなる。

僕「僕Aってアーティストのファンなんだー」

友「マジで!?俺もファンなんだよ!○○(マイナーな曲)っていいよなぁ!?」

僕「えっ!?あっ!?うんそうだな(知らない)!!僕は○○(頑張ってひねり出したが有名な曲)が好き!!!」

友「あぁ・・・(好きの度合いを察した)(もうAの話はしない)(Aの話ができる友達ができたと思ったのに)(もっとAのマニアックな話したかった)(そのレベルで話振るなよ広がらないじゃん・・・)」

 ほらこうなる。この「あぁ・・・」の空気。皆さんも経験したことはあるだろうか。別にその友達が嫌な奴とかではない。そして有名な曲がダメなわけではない。僕だってサウダージは好きだ。アポロもMアワもメリッサもハネウマもリバルもTHE DAYも好きだ。だが違う。僕らは試されている。こういう会話をするとき、得てして最初は軽くジャブの打ち合いをする。愛の指標の1つ、知識でだ。ここでは、友達は好きな曲を言いたい、もしくは僕のそれを知りたいのではない。僕が「どれだけAを知っているか」が知りたいのだ。マイナーな曲であるほど、Aを良く知っている、つまり「Aに対する愛が深い」となる。しかし僕はここで有名な曲を答えてしまった。そのために友達との「好きの熱量の差」が浮き彫りにされてしまう。友達に「ファンだって言ったじゃん・・・」って思われるのだ。そしてそのあと僕はこう思う。「ファンなんて言ってしまって、申し訳なさでいっぱいだ・・・」って。「ファン」と「好き」の線引きを知らないとこの空気が生まれて僕を殺していく。

 相手によってはAの話を続けてくれるかもしれない。だが少なくとも僕がこの例の逆の立場だった場合は間違いなく話を続けない。頑張って続けようとするかもしれないがそう長くは続かないだろう。相手の好きの度合いに合わせて話ができないからだ。あまりにその差がありすぎると「その話振らないでくれ」とすら思う。大好きなAの話題だとしてもね。

 こう書いてみるとあまりに自分勝手だなとは思うのだけれど。好きなことの話をするのに気を遣いたくないし、遣わせたくないし、遣ってほしくない。思う存分話したいし、話してほしい。だからこそ、その線引きを教えてほしいと、知りたいと思う。

 線引きを教えてほしいと言ってはいるが、そこに明確な基準があると思うのかと問われたら、決してそんなことはないと答えると思う。何言ってんだこいつ。というか、明確な基準があるならこの「どれくらい好きになったら『ファン』って名乗っていいのか」という疑問はとっくに解決しているはずだ。線引きなどないから僕は困っている。線引きなどないからこそ線引きが欲しい。そんな中でループが巻き起こっていて一歩も前に進まない。考えの堂々巡り。自分じゃ導けないから教えてほしいのだ。ひぃ。

 では、その線引きがあるとしたら、どこが基準となるのか考えてみる、が。さっき「自分じゃ導けない」と書いたけど、人類が共通認識として持っている基準が分からないだけで、実を言うと自分なりの基準は導き出せている。何言ってんだこいつ。一般的でないにしろ、1つの考えとして書き残しておきたい。実はもうさっき書いてるんだけどね。

 少し前に「僕はポルノグラフィティのファンだ」と書いた。愛はそんじょそこらの人には負けない自信があるから、と。その「自信」だ。自分なりの基準はそこにある。僕がファンと名乗るときは「(胸を張って)ファンだ(といえるぐらいに愛がある自信がある)」という”カッコ”がつく。その自信の根拠は何かと問われたらまだまだ考える余地はあるんだけれど。僕は愛を持っていることに自信を持てるか否か、を自分なりのファンを名乗る基準としている。基準というには少し曖昧だけどね。

 ファンと名乗れる基準は、間違ってもファン歴の長さとか――ここで「ファン」って使うとややこしいけど――、何曲知っているか、ライブに行ったことがあるか、ファンクラブに入っているかなどで決まるものではないと思う。それはきっとそういう数えられるもの、証を手にすることで証明できるものではなくて。しかしそれが愛の指標となるのも違いないと思う。愛も自信も形のないものだ。その根拠になるもの、示すものを見つけることは大変難しい。だから「ファン」と名乗るその基準は人と比べられるような客観的な事実とかじゃなくて、自分自身を見つめなおした先にあるものだと思う。何を言っているかわからなくなってきた。けど、まあそんな感じ。

 先述したけれど、これはあくまで”僕の”考える基準、線引きだ。タイトルの疑問は何も解決していない。ほかの人々がどんな思いで「ファンだ」と名乗っているのか、全くわからない。みんなどれだけ好きなの?誰か教えてください。良ければ線引きを決めましょう。さらなる被害者が出る前に。

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