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電波鉄道の夜 29

【承前】

 男の子は淡々と話を続けた。
「船は変わらずすごい速さで動き続けました。右に左に向きを変え、速度を上げ。僕たちは必死に抱き合っていました。そして……」
 男の子は虚空を見つめながらぶるりと体だけを震わせた。
「そして、あの衝撃がやってきたのです。世界の割れたような音が響きました。大きな揺れがあって、その揺れが収まったときにはあれほど暴れ回っていた船が動きを止めていました。
 恐ろしいほどの沈黙。それからぐらりと船が傾きました。どこかで誰かが叫びました。『氷山だ! 船が沈むぞ!』その声は船中に響いて……」
 短い沈黙。がたんごとんと電車の揺れる音がやけに大きく聞こえる。
「またたくまに恐怖と恐慌が船を覆い尽くしました。お客さんたちは少しでも高い方へ上がろうと駆け出しました。人の流れの中で僕はお母様と手を繋ぎ、もう片方の手で妹の手を握っていました」
 男の子は左手を見つめた。
「船の甲板の救命ボートには人々が詰めかけていました。お父様とお母様は叫びました。『子どもたちがいるのです。この子達だけでも乗せてください』と。その時、また船が大きく揺れました。人の流れに押され、気がつくと僕たちはボートの前にいました。でも」
 男の子は手をぎゅっと握った。
「確かにこの手に握っていた妹の手がいつの間にかなくなっていたのです。『妹が!』僕はそう叫びました。お父様は僕の肩に手をおいて言いました。『お父さんたちが探すから、お前はボートに乗りなさい』。『でも』と言いかけた僕の背を押し、先生に向かって言ったのです。『先生、この子をよろしくお願いします』と」
 言葉を繋げたのは先生だった。
「そうです。それで暴れるこの子とボートに乗ったのです。それは正しかったのでしょうか。けれども」
 先生は言葉を切り、絞り出すように言った。
「私はご両親の言葉に逆らうことはできませんでした。どうしてできたでしょう。あの覚悟の決まった目を見て」

【続く】

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