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記憶を記録に書き留めて

  幼い時にひどく悲しい想いをした記憶がある。なにがあったのかはよく覚えていない。兄に気に入っていたおもちゃを壊されて、親に訴えたのに取り合ってくれなかったとか、飼っていた金魚が死んでしまったとか、親友がどこか遠くへ引っ越したとか、通学路に狂人が現れて刃物を振り回したとか、そんな、よくあることだったのだと思う。ただ、ひどく悲しい気持ちが胸の下のあたりに重くのしかかって、ずっとしくしくと泣いていたのを覚えている。
 もう一つ、覚えていることがある。その自分の胸の内にある悲しいという感情をじっと見ている自分がいたのだ。「ああ、自分は悲しいことがあった時にはこのように感じるのだな」とそのようなことを考えていた。
 それからも何か悲しいことがあった時には、その感情の動きを観察している自分がいた。
 いつからか悲しい以外の感情も観察するようになった。うれしい時も腹が立った時も、その感情のもたらす変化を、自分の感情がどのように動き、体にどのような動きが出るのかを観察して、記憶していた。
 悲しい時にせりあがってくる嗚咽、それを押さえる苦さ。喜びのわくわくするような、体が浮かび上がるような、心地よさ。腹が立った時の血液の煮え立つような感覚。
 右肩の辺りにぼんやりと三人称視点が浮いている、とでも言うのだろうか。どこか他人事のように見ている自分自身。それらを感じると、同時に感じていることを一つずつ頭の中のメモに記録していった。
 頭の中の図書館の中に、積み重なっていく記憶の記録。
 あるいはそれは私自身を守っていたのかもしれない。生身の感情の荒々しい衝撃から。
 それは今でも終わってはいない。
 例えば、先日友人が「遠くに行った」。それを私の心は悲しいと感じた。観察者はそれを記録した。いつかこの想いをなにかに使おうとメモに記してしまい込んだ。
 ねえ、君。そんな感じ方をしている私は、本当に私の人生を生きているなんて言えるのだろうか? 記録された感情は本当に私自身の感情なんだろうか? 友人に会えなくなって寂しいという寂しさは、感じたときと、記録されたとき、それから読み返すときのそれぞれで同じ感情なんだろうか?
 私はそのどちらが正解だったとしても恐ろしいと思うのだよ。もしも違うなら、私がずっと記録してきた感情の集積になんの価値もないということになる。けれども、もしも完全に同じだと言うならば……
 あるいはそちらのほうが恐ろしいかもしれない。だって、そうだろう。読み返される感情と感じる感情が完全に等価だというならば、例えばよく書かれた小説の体験と私達の体験も同じように等価だということにならないかい? 君の悩みも痛みも有史以来何千回も語られてきた悩みや痛みとおんなじであるということになる。それはとても恐ろしいことではないか。
 だから、私は、ただ一つの希望にすがるのだ。今の記録は解像度が足りないのだという可能性に。それは二つの恐れを遠ざけてくれる可能性だ。つまり、すべての感情は十分に解像度が高ければ、個々に識別できるものになる。けれども、今はまだ十分な解像度がないので似通ったものになる。いつか十分な解像度を得るために今は蓄積させているのだ、とそういう解釈だ。
 あるいは、想いを記録するのに言葉では不十分なのかもしれない、と思うこともある。

歌にしておけば
忘れないでいられるだろうか
たった今恋に落ちたこと

 残念なことに僕は歌を作るなんてことはできない。だから、物語を作るのだ。この想いを記録する、それに足る解像度を得るために。
 これが僕が物語を作る理由だよ。そんなポエットな理由で書いてるなんて驚いたかい? だろうね。だから言いたくなかったんだ。でも、残念なことにこれは本当の話なんだ。ジョーカーの口が興奮で震える手で化粧したからあんなに裂けて見えるんだってくらい本当だよ。

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