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「いじめのない学校」はいい学校か?

保護者の方にとって学校を選ぶ基準は様々だと思います。難関大学の進学を希望するのであれば、偏差値の高い学校を選ぶ。あるいはそのような大学の付属校を選びたいと思うでしょう。

しかし、実は多くの保護者が選ぶ基準として意外に多いのが、

いじめのない学校かどうか?

「いじめがない」という評判は信用できるか?

某学校情報サイトでは、口コミ評価の内容として「いじめの少なさ」というのがあります。実際にいじめが原因で不登校、あるいは退学といったケースは決して少なくないため、保護者としては気になる項目の一つでしょう。

では、そのような口コミで「いじめがない」あるいは「いじめが少ない」という学校は本当にいい学校なのでしょうか?実は、ここに大きな落とし穴があります。

いじめは「必ずあるもの」

「おとなしい子が多い」
「先生と仲が良い」

このような評価が書かれていると、何となくいじめのない、いい学校のように思えますよね。ちなみに私の場合、「いじめのない、いい学校」という評判でした。そんな学校で私自身がどのような目にあったかといいますと、

・暴力
・窃盗
・仲間外れ

いじめの加害者の言い訳として、しばしば使われる「いじり」などといいうのは日常茶飯事で、それが嫌でなるべく関わらないようにする。例えば休み時間に「寝たフリ」をしていると、机を蹴られたり、あるいは鼻をかんだティッシュを大量に投げつけられたりといったこともありました。

こういった状況にも関わらず、校長先生によると「我が校は、いじめがないのが大きな特徴」なのだそうです。もし当時、ネットが存在し、学校の口コミを書けと言われた場合、

「陰湿ないじめが横行している最低の学校」
「教師の依怙贔屓が酷すぎ」
「盗みの犯人は大抵、先生に気に入られている奴」

と、書いたでしょう。

結局大事なことは、

本人がいじめの被害者にならないかどうか

例えば「いじめはほとんどない」といっても、1件だけあるいじめがあり、その被害者になった場合、どうでしょうか?いじめの多い少ないは関係ありません。本人にとっては「それが全て」なのですから。

逆も然りで、「ガラの悪い生徒が多い」「いじめが多い」といった評判であっても、本人がいじめに遭わなければ(少なくともいじめについては)問題がないわけです。いわゆるスクールカーストの頂点に君臨することで、楽しい学園生活が送れた場合、いじめの存在にすら気づかないというケースも多いのではないでしょうか?

実は、いじめは「必ず」発生しています。ないという人は基本的に「自分が当事者でない」あるいは、あったとしても「なかったことにしたい」という事情があるかのどちらかです。

「いじめが発生=教師の指導力不足」なのか?

公立学校では教育委員会による、教師の評価基準というものが存在します。その一つに、担任のクラスでいじめがあった場合、教師の評価がマイナスとなる。極端な話、いじめによる自殺者が出た場合は「引責辞任」を求める声も上がってきます。

では指導力のある教員であればいじめを防げるのでしょうか?もちろん、そういうケースもあります。しかし、いじめの原因は教師の指導力不足によるものとは限りません。加害者にも様々なタイプがいて、いわゆる「発達障害」あるいは「サイコパス」と呼ばれる子の場合、彼らをいくら管理・監督したところでいじめを防ぐことは出来ません。

実は重要なのは「いじめをなくす」ことではなく、いじめはあるものという前提で、

「いじめが起こったらどう対処してくれるか?」

重要なのはいじめが起こる「前」ではなく「後」です。いじめの件数が少ないとしても、一度発生したら何も対策がないというよりも、いじめがあっても対処の仕方がしっかりしてくれた方が、被害者としては「まだ救いが」あるというわけです。

「いい学校神話」が隠ぺい体質を招く

教師が「自分の評価を下げたくない」。あるいは学校が「いい学校という体裁を守りたい」とした場合、犠牲になるのはいじめの被害者です。

しかし前述のとおり、いじめの発生は必ずしも教師の指導力、あるいは学校の校風ではありません。いってしまえば、いじめは自然災害のようなもので、どんなに気を付けようが、

一方的に向こうからやってくるもの

なのです。

新型コロナの感染者0という国が信用できるでしょうか?
犯罪者が1人もいない国が信用できるでしょうか?
独裁政権の「支持率100%」が信用できるでしょうか?

実体は存在そのものが消されたり、あるいは伏せられているとか、むごい内容です。実はいじめも同様で、「ない」のではなく「なかったことにされている」のです。

いじめのない学校がいい学校。あるいはいじめが起きないクラスの先生がいい先生……。そのような「神話」がある以上、実際の現場との乖離は見なかったことにされてしまう。そして、それを隠ぺいすることで更にいじめが深刻化しているわけです。

いじめに対する「取り組み」を見よ

いじめのない学校 > いじめのある学校

多くの方は、このように考えてしまうかもしれません。しかし、実際にいじめがないというのはそもそもあり得ないわけです。したがって、

いじめに対して誠実な学校 > いじめに対して不誠実な学校

実際はこれが正しいといえるででしょう。だとすれば、

・いじめが起きた時、保身に走る学校
・いじめが起きた時、真摯に対応してくれる学校

前者が「いじめのない学校」であり、後者が「いじめのある学校」です。どちらがいい学校でしょうか?少なくとも私は後者であると考えています。

おそらく多くの方はいじめの被害者にはなりたくないでしょう。むろん、加害者であればよい、というわけではありませんが、加害者はいじめを忘れることは出来ても、被害者は忘れることは出来ません。

中にはいじめの被害にあったことで「いい経験になった」「強くなれた」などという人がいますが、それは本心ではなく、親を心配させないために強がっているか、あるいは、

いじめに遭わない方がもっと強かった

です。おそらく、もともと強い子ではあったのでしょう、いじめによるダメージを受けても、たまたま心が折れなかっただけで、

弱くはなっても強くはなっていない

のです。

いじめの被害者は「百害あって一利なし」です。唯一の希望があるとすれば「理解者がいるかどうか」でしょう。その理解者が親であるか、そして教師であるかでその子の人生は大きく変わってきます。そういった先生がいる学校であるかどうかがある意味、本当の意味で「いい学校」なのかもしれません。

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