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Episode 558 後天的な性質です。

前回の記事で久しぶりに「サリー・アン課題」の話題を出しました。
ASDの自他境界の緩さは「一人称視点」が弱いがゆえに「三人称視点」からの俯瞰に頼ることに由来するのでは…と、説明したのです。

ところで、人間が生まれて成長する過程で「真っ先に獲得する視点」というもの考えると、それは間違いなく「一人称視点」だと思うのですよ。
だって、生まれてきた赤ちゃんが自分のことを外から見下ろしている…ワケないじゃないですか。
兎に角、自分の気持ちを伝えるのに必死…言葉も分からなければ体の自由も効かない、親に守られるだけの小さな存在ではあるものの、「お腹が減った」とか「お尻が気持ち悪い」とかの意思を全力で伝えるワケです…一般的には泣いて注目を引き、世話してもらって心地よくなると「ニコッ!」と笑う…でしょうかね。
これが自分の意思…一人称の気持ち以外のナニモノであるかという問いに、異を唱える方はいないだろうと思うのです。

そういう意味で考えると「サリー・アン課題」とは、ストーリーを聞いて「私の目線」と「あなたの目線」を切り替えて判断する能力を確認する手段…と言うことになるのでしょう。
「サリー・アン課題」課題の誤答とは、第三者位置のストーリーを聞いて、聞いたすべてを「私の経験」とすることによって「あなたの経験」と混同することで起こるワケですから、誤答した人の視点は第三者視点ではない…と言うことになるワケですよ。
これ、すごく重要なことだと思うのです。

つまりね、ASDの私が上空から私とあなたを眺める三人称の視点を獲得するのは、一人称の視点を獲得した後のハナシ…と言うことです。

では何でASDの私が一人称の視点を恐がり、三人称視点を求めるのか…という点に疑問が残ります。
ここで…ここでも登場するのが、自閉性質の核心は「自分の気持ちのコントロールができない」なのだろうと思うのです。

私とあなたの関係は、私の「我」を突き出すことであなたが傷つき、あなたの「我」を突き出すことで私が傷つく…という小さな意見の相違(ケンカ)を経験して「ペルソナ」の形成という人格を作りあげていくのだと思います。
ところが「自分の気持ちのコントロールができない」自閉性質は、あなたが傷つくことへの理解ができず、自分を出せば叱られるようになるワケです。
そこには、あなたは「私の『我』を突き出すことであなたが傷つく」の学習があり、やってはいけないことへの理解がある…というバックグラウンドが存在するのでしょう。

「平均的な子どもの発達段階」では、4~7歳で「サリー・アン課題」に代表される「こころの理論」の習得がなされるとされているワケですから、このくらいの年齢になると、私とあなたの間での意見相違が「ケンカと仲直り」という具体的な事象を通じて経験値として蓄積されることになる…ところが。

「自分の気持ちのコントロールができない」自閉性質は、あなたが傷つくことへの理解ができず、あなたが気持ちの融通をし始めても、私の「我」を突き通すことになる…大人にここを咎められるワケですよね。
咎められないように「何らかの融通する手段」を編み出さなければならないASDの私は、自分を封印した上で、あなたが何を考えているのかを観察する様になる…ではないか?

すると、自分の意思は必然的に第三者位置に移動することになるワケで、即ち俯瞰位置からの考え方をするASDは、それ自体が自己防衛の「籠城型ライフハック」だということになるのではないか…と言うことです。

上空から私を取り囲む相手陣形を見て、最善手を打つ…。
この陣形に追い込まれた時点でASDの私は、フィールドに立つ一人称位置の視点を奪われている可能性を感じます。
当然、一人称位置から見える「あなた」という二人称も見えていないのでしょう。

こう考えた時、一般的に言われる受動型…ってASDの性質は、一般社会で生きていくために必要に迫られて作りあげた「後天的なASDの姿」のような気がするのです。

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