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「飼う」という罪

私は3匹の猫と共に暮らしている。

1匹は知人の駐車場に捨てられていたところを引き取り、
もう1匹は引き取り手のない子猫を譲り受け、
最後の1匹は親猫に見捨てられていたところを見つけて迎え入れた。

過不足なく環境を整え、
昼夜問わず3時間おきにミルクを与え、
月齢に合わせた餌を用意して、
異変を感じれば全速力で病院へ連れて行く。

そうやって育ててきた3匹だ。

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動物が好きかと聞かれれば、それほどだが、猫は別である。

神秘的とも言えるほどの魅力を、絶えず発散し続けているにも関わらず、
どこか呆けた顔でこちらを見上げて全身で甘えてくるかと思いきや
飽きれば気まぐれに去っていく。

あれほど不均一にバランスがとれた美しい生き物は彼ら彼女以外には思いつかない。

だから、彼女たちと暮らしていけるのは私の人生における大きな幸福の1つで、むしろ彼女たちの存在があってはじめて生活が回ると言っても過言ではない。

そんな猫なしの人生は考えられない私だが、もともとペットを飼うことには懐疑的だった。
彼ら彼女らの人生(猫生?)が自分の手のうちに制限されてしまうことが怖かったからだ。

実際彼女たちと暮らしていると、やはり現代人が生活するような高度に文明化された家のなかに閉じ込めておいてしまうには、申し訳ないくらいに猫の姿は美しい。

鋭く尖った爪や牙は自然のなかで狩りをしてはじめて、その秘められた力が発揮されるだろうし、走るのに適した4本脚やしなやかな骨格がもし自然に解き放たれたならきっとどこまでも駆け抜けてゆけるだろう。

それなのに、私が与えられるものといえば一袋980円のペットフードに、温度の感じられないフローリングの床、そして工場から出荷されてきた布製のネズミのおもちゃ。

もしかすると、私は彼女たちの世話をするという大義名分のもと、彼女たちにとって大切ななにかを奪ってしまっているのかもしれない。
そう思いながら、お気に入りのダンボールのなかでかすかな寝息を立てるまあるい毛の海を撫でるのだ。

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彼女たちはもう、野生では生きていけない。
生きていけるとしても、危険な外界に出す気は毛頭ない。

けれど、持ち合わせているはずの彼女たちの魅力の源泉をこちらの身勝手な感情の隙間に押し込めているかもしれないと思うと、どうにも罪悪感を感じている。

好きで好きでたまらない、たった十数年の命の行方を握ってしまった私をどうか許してほしい。

彼女たちの退屈で幸せな日々を守るために、毎朝餌皿にキャットフードを盛り、すり寄ってくる柔らかな頭を撫でてやることだけが、私にできる贖罪なのだ。

(了)

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