聖母の涙
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聖母の涙

保科亮太

下流へ勢いよく流れていく褐色に濁るメコン川を眺めていた。
日差しが強いので、Aさんは日傘をさしていた。僕はAさんからイギリスの国旗がプリントされた折り畳み傘を頂いた。しかし、これはロンドンまでの御守りにしようと思い、あえて強めの日光浴をしながらAさんの話を傾聴していた。

新聞屋で働きながら高校を卒業したAさんは、妹を養いながら自立した生活を送っていた。そこへ家を出て別の場所で働いていた社長の息子が帰ってくることになった。以前、初対面にも関わらずAさんを見るなり、「なんか色黒の女がおるやんけ」というような失礼な発言を連発していたので、これはまた不穏な空気が漂ってきたと感じたそうだ。
ところがどっこい。この社長のドラ息子とAさんは、その後に結婚することになる。初めて会った印象が最悪で、その後に徐々に惹かれあっていく二人なんて、絵に描いたようなドラマじゃないかと僕は思った。

新聞屋を切り盛りしながら貧乏学生のお世話もしつつ、晴れて新聞屋の若女将になったAさんに、とうとう子宝が宿る。その子が僕を横浜まで送ってくれたHさんだった。ようやく自分の家族を持てたことにAさんは心から幸せを感じた。こんな気持ちになれるなんてAさんは本当に夢のようだった。

そんな満ち足りた日々を過ごしていたある日、赤子を抱いていた彼女の元に二人の女性が現れる。
「可愛いね、可愛いね」と話していると、一人がAさんに向かってこう尋ねた。
「あなたはこの子がどこから来たと思いますか?」
Aさんはその時「それは私のお腹から生まれてきたのだけど」と思った。しかしもう一人の女性がこう言った。
「赤ちゃんは神からの授かりものなんですよ。」
それを聞いたAさんはハッとして、素直にそうだと感じた。これまでの辛く苦しい日々に耐えて、ようやく授かった宝物がHさんと、その後に生まれた妹だった。そう信じるに値するほど、それまでのAさんの道は険しく厳しかったので、報われた気待ちだった。
「この子たちは神様からの授かりものなんだ。だから、今よりもっと大切に大切に育てよう。」
そこで二人の女性から無料で聖書を学べる場所があると聞き、少しずつ通うことに決めた。
しかしその時、Aさんは直感的に「これは大変なことになる」と予感した。なぜならば、Aさんが嫁いだ先は厳格な仏教徒で、代々お寺などの総代も務めるような家柄だったからだ。

予感は的中した。
元々身寄りのなかったAさんは、聖書を学ぶことはもちろん、当然クリスチャンになることに家族総出で猛反対された。親戚縁者にも総スカンをくらう日々。しかし、Aさんは断固として意思を曲げなかった。
いよいよ夫にも「家を取るか捨てるか」と迫られる。二回ほど家族会議が行われて「もし聖書を捨てるなら全てを無かったことにする」と諭されたが、Aさんは毅然とした態度でこれを突っぱねた。
「もう自分はこの道で行くと決めている。主人は夫ではなく、神なんだ。」
Aさんは決して現状を悲観することなく、むしろ晴れ晴れとした気持ちで家を出た。
「大丈夫。また妹を養っていたように、二人の子どもを育てたらいいんだ。」
Aさんは潔く自分の選んだ道を進むことにした。それから洗礼を受け、仕事や子育てに邁進しながら、堂々とクリスチャンとしての日々を過ごした。

数年後、Aさん家族は九州のとある島に住んでいた。小規模にクリスチャンの活動をしている仲間のところへ加わるためだった。そこでの暮らしの中、Aさんはなかなか仕事が見つからず、貯金を切り崩しながらの生活だった。しかし、目の前に広がる美しい海を眺めながら、子どもたちの日焼けした笑顔を見ていると、不安は徐々に消えていった。娘のHさんから当時の話を聞いた時、「あの時のきれいな海を今でも覚えている」と目を輝かせていた。それだけ自然環境に恵まれた土地だったのだろう。
Hさんの進学を機に再び関西に戻ってからは、特に大きな移動もなく、娘たちの成長を見守る日々を過ごした。

月日は流れ、とうとうAさんの子育ても終わった頃。
介護の仕事に就いていた彼女の元に、知人からある誘いがやってくる。
それは当時改正されたばかりの介護医療制度の波に乗って、介護の会社を立ち上げるという内容で、Aさんにもそのメンバーに加わって欲しいという話だった。そのくらいなら構わないと思い、立ち上げを手伝っていると、突然「社長になってくれないか」という打診がきた。そんなことは出来ないと首を横に振るAさんだったが、少しずつ周囲に諭され、とうとう折れて社長になった。
しかし、やはりここでも神さまはAさんに試練を課した。
会社の経営が少しずつ傾き、程なくして倒産。社長のAさんが負債を抱えることとなった。創設メンバーは皆Aさんの元から去っていった。その時Aさんはメンバーそれぞれを咎めることも出来たはずだった。でもAさんは一切そんなことはしなかった。
「彼らを追い詰めることが果たして人間として美しい行いだろうか。神はその行いを良しとするだろうか。」
そう思うと、答えは決まった。
「社長をやると決めたのは自分自身であって、その責任がある。だから、文句を言わず黙って借金を返していこう。」
それがAさんにとって一番良い選択だった。

粛々と借金を返済する日々が続いていたある日。
教会にもなかなか出かけることが出来なくなっていた。
そこへたまたまずっと音信不通だった親交を深めていたクリスチャン仲間から、Aさんの元へ連絡が入る。
Aさんが「今までどうしていたの?」と聞くと、
「しばらく前からタイに住んでいるのよ! ここは良いところよ。いつでも来ていいから、あなたもいらっしゃいよ。」
Aさんにとって、全く知らない世界で生きている仲間の言葉に、少し心が動いた。素直に行ってみたいと思った。
そこでAさんは勤め先に無理を承知で、「年末年始に十日間ほど休暇が欲しい」と申し出た。すると責任者から、
「そんなとんでもない! 一番忙しい時期で休みを取る人も多い中、あなたがいなくなったら現場は回らないじゃないの!」
と、予想通りの答えが返ってきた。そこでAさんはキッパリ言った。
「分かりました。年末年始の忙しい時は全て出勤します。その代わり、それが終わったら仕事を辞めます。」
まさかの頑なな決意に、責任者は参ってしまった。

初めてタイの土を踏んだAさんの心は解放的だった。
“微笑みの国”で会う人々に、それまでの常識を清々しく打ち破られ、「こんなの(生き方)アリ?!」と思うことばかりだった。世界は広い。笑いが絶えなかった。食べ物も美味しかった。何よりも、タイは物価が安かった。
「ここは日本での生活費の何分の一で暮らせるんだろう?」と真剣に考えるようになった。
そして、一ヶ月後が経ちタイを離れる時、
「また戻ってきます。」
と仲間に告げて、日本へと戻っていった。

そこからは移住をするための準備に取り掛かった。しかし、定年間近の人がまともに就ける仕事は少なく、職安で「もう少しで定年だったのに何で辞めてしまったんですかー!」と何度も言われた。
さすがにそんな日々が一ヶ月、二ヶ月と続くとAさんも不安になってくる。
「もしかしたら、この選択は神の意思としないところ、思召しではなかったのかもしれない。」
と気を落としながら教会に行って祈った。
「もう高望みはしないから普通のお仕事が出来ますように。」
そう願った後、しばらくすると奇跡的に関西の大企業の介護部門から正社員としての誘いを受ける。Aさん神に感謝し、歓喜しながら働いた。

いよいよ借金も完済し、タイで住むための資金も貯まった。日本で生活するには厳しい年金も、タイでなら慎ましくやっていける。
そして、五年前の四月。「あと二ヶ月も働けばボーナスがもらえるのに!」という周囲からの声も気にせず、「早くタイに行きたいので」と言って、日本での勤めを終えた。
アパートにあった家具で売れる物は全部リサイクルショップに売り払い、そうでないものは処分した。
両親を亡くして九州から関西に行った時。家を追い出されて新聞屋に住むことになった時。幼い子どもを連れて新聞屋を出た時。普及活動のために九州の島に行った時。子どものために関西に戻ってきた時。そして、これからタイに行くという時。Aさんの荷物は、また最小限のスーツケース一つだけとなった。
「またここに戻ってきたんやね。」
日本でやり切ったAさんは、未だかつてないほどに身軽だった。

仲間の紹介で、タイの北部にあるチェンライの郊外に住むことになったAさんは、まず一年間語学学校に通いながら、周囲のタイ人ともコミュニケーションを取るように努めた。
「もう何のしがらみもなく自分の好きなことが出来る!」
と、Aさんは飛び跳ねるように嬉しかった。
それからクリスチャンとしての活動をしながら、現地の家々を訪ねたり、持ち回りで後期高齢者の介護をしたり、困っている人がいたら駆けつけたり、僕のような見知らぬ訪問者が来たら宿の手配や案内をしたり、これら全てを無償で行なっている。いや違う。喜んで身銭を切ってやっている。
日本にいる家族に「十年は好きにやるから」と言い残してから、半分の五年が過ぎた。身の回りの物は少ないし、お金も少ない中で暮らしている。しかし、このAさんの曇りなき満ち足りた表情が全てを表している。
彼女は彼女が長年かけて見つけた、“本当の豊かさ”を握りしめながら日々を過ごしている。
倒れても倒れても起き上がり、耐えて耐えて、忍んで忍んで。ようやく手にすることが出来た心穏やかな生活。
僕は心からAさんに拍手を贈りたい気持ちになった。

チェンライを離れる前夜。
僕は初めてクリスチャンの集会に参加した。賛美歌に始まり、聖書の一節を読んで意見交換をしていく。タイ語で話が進んでいくため、僕には全くそれらの話が分からなかった。なので、黙ってこれまでの日々についてひたすら内省することにした。というのも、そこに集まる二、三十人の幼い子どもから百歳近い老人まで、みんな本当に澄んだ眼をしているのだ。雰囲気で分かる。この人たちは汚れがない。どう見ても、ここにいる僕だけが人として薄汚れている。何回も改まって申し訳ないけれど、「人生に真摯に向き合おう」と、敬虔な気持ちで、祈るようにこれまでの自身の行動を戒めた。

信仰を持つことについて考える。
Aさんは誰にも分かりやすくキリスト教を信仰しているけれど、僕は仏教徒でもキリスト教徒でも何でもない。でも、ある種の信仰を抱いて生きていると思う。「誰になんと言われようと、(自分が納得できる)この道を行く」という気持ちがある。結果、完全に家族と離れてしまっている。仲が悪い訳ではない。価値観の話。最悪、一人でもいいと思っている。当然、周りからは理解されない。馴染み深い友人たちは、疎遠になった僕を「あいつは何かの宗教に走ってしまった」とか、「行ってしまわれた」と思っているかもしれない。でも、それも否定は出来ない。僕は僕の信じる道を行きたいから。
僕の信じる道とは何か。それは面白そうな道だ。僕の場合、単純にみんなと同じじゃ詰まらなかったので、たまたま有償無償関係なく何でもやるみたいなことをやっているだけだ。誰かを助けるためにとか、救うためになんて気持ちではやっていない。ただ“逆張り”することが面白かっただけ。そこでみんなが得したいのなら、損する方に賭けてみようか。ただ、無粋な真似はしたくない。そんなふうに生きていたら、どんどん無くなるせいか、たくさんの恵みを与えられる日々となった。なんだ、もう全部足りているじゃないか。僕は満足している。これ以上、特別欲しいものは何もない。余生を楽しむように生きている。その辺りは、Aさんと似ているんじゃないかなと思った。

「聖書は生きるための取り扱い説明書」だと聞いた。“神の教えに従って生きれば、豊かな人生が送れる”、そう僕はざっくり解釈した。僕にとっての人生の
取り扱い説明書は何だろう。人や経験
から出来るものか。
ファルスの言葉を思い出す。
「選択肢は一つじゃない。道は無数にあるんだ。それでも無いと思うなら、君が自分の手で作ればいいんだよ。」
そう、僕は僕の教科書を自分で作ればいい。なかなかに失敗だらけで、未だにまともな事は書けていないけれど、やっぱり手作りというものはいい。ぼろぼろでも、愛着が湧く。
神様はこんな僕を見てどう思うだろうか。

結びの歌が終わると、たくさんの人が一人ひとり僕の元へ歩み寄って、
「今日は来てくれてありがとう。」と言ってくれた。
九十七歳の山岳系少数民族のおばあちゃんの笑顔が、亡くなった祖母にとても似ていて嬉しかった。来て良かったと思った。
帰り際に、Aさんが僕の側に寄ってきてこう言った。
「先ほどの集会でも、今日の日中に話した、“赤ちゃんは神からの授かりもの”という場面がありましたね。あなたのお母さんも、きっとあなたのことを神様から授かったものとして、大事に大事に育てて、そして今も大切にあなたを想って愛していますよ。」
そう話すAさんの眼から、涙が溢れていた。
僕には分かった。
この言葉は、僕を通してAさんが今でも娘のHさんや妹さん、そして孫たちを心から愛しているよ、というメッセージなのだと。

部屋に戻って、Aさんが作ってくれた手作りの弁当を開いた。
卵焼きに鶏肉、果実入りのサラダ。そして僕の大好きな味噌汁。一人ぱくぱく食べていると、どんどん胸が切なくなった。
母の味だった。母の愛情だった。僕は日本を離れたタイの山間部で、温かくて優しい、確かな母性に触れていた。
そして、薔薇の花柄のお茶碗に入った、山盛りの白米を見て泣いた。

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保科亮太

その私をサポートをしたいという気持ちが何よりのサポートでありますので全力でお答えしたい気持ちとともに全力であなたのために生きたいと思う私であります。

その勇気に乾杯。
保科亮太