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我が理想のシャングリラは美しいか

街の写真を撮るのが好きである。
カメラ好きの人には怒られるかも知れないが、
当方、一応一眼を所持しているものの、機材への拘りは殆ど無い。
只、スマホでは味気無いので、気分を乗せるために一眼を抱えているだけのことである。

街を撮るのは、近くて安く済むという経済的理由もあるのだが、
一番はやはり街という場所が好きなのだと思う。
特に、街の陰に隠れがちな汚い部分が好きである。

それは汚れた路地裏であったり
それは乱雑に入り組んだ配線であったり
それは場違いに置かれた自販機であったり
それは錆びついた看板であったり

そこに渦巻く今を生きる人間の息遣いに興奮する。
その場所に生きる住民の本性が醸成する生々しくて剥き出しの生活感に安心する。
地元は一面の田んぼが風景を占める静かで小さな農村だった。
人口物犇めく都市の過密空間とは全くの無縁であった筈なのに、
この胸を刺すようなノスタルジーは何だ。
高度経済成長の名残を受けた、無計画で無個性な鉄筋コンクリートのアーキテクチャ群に侘び寂びを見るのは何故だ。
様々の感情が綯い交ぜに錯綜するこの一瞬のリアルタイムの生きた雰囲気を残したくてシャッターを切る。

錆び切った建物や、荒れた路地などをよく撮影するからか、
廃墟が好きなのかと問われることがある。

廃墟は廃墟で好きなので、
まあ、廃墟も好きだよと答えるが、
街に感じる魅力は前述の通り、廃墟のそれとは全く趣を異にしている。

私が街から感じたいもの。
それは生々しい人間の営みである。
一方で廃墟に感じるのは現世との隔絶感。
私が感じる両者の魅力は、実は真っ向から対立しているのだ。



。。。

私が写真を始めてから5年程が経つ。
当初から好んで街を撮りに出かけてはいたが、
なぜ街を撮りたいのかについて、
理由を言語化できるようになったのはつい最近のことである。


きっかけはある一冊の写真集の後書きだった。

その写真集こそ森山大道先生の「犬と網タイツ」である。

森山先生といえば「荒れ・ブレ・ボケ」といったダイナミックで斬新な手法で有名である、というと語弊があるかもしれない。その荒々しいまでの力強さと深くて重い影が強く印象に残る。

本書はたまたま立ち寄った神保町の古本屋magnifでたまたま見つけた。
よい出会い方であった。

店頭で頁をめくって衝撃を受けた。
モノクロのスナップショット。
街の何もないところを見つめる視点はまるで犬のよう。
まさしく、これが私のやりたかったことだった。

今まで写真集なんて一度も勝ったことはなかったが、
これは運命と即買い。
2500円也。


一通り写真集を眺め終わってあとがきを読んだ。

このあとがきが実に胸にすとんと落ちて気持ちよかったのだ。

犬と網タイツ 森山大道 の後書きより

(※はルビを表す)
~前略~

さして関連を持たないそれぞれの都市の路上を撮るにつれ、ふと、気持ちのなかに思い当ってくることがあった。
それは、ぼくはカメラ、一つの写真地図を、一枚の写真地図を、時をかけて造り続けてきたのではなかったかという、きわめて素朴な感情であった。ほぼ半世紀あまりに渡って、さまざまな現実世界のディティールを写し(※コピー)つづけることで、ぼくはぼくにとっての仮想都市(※シャングリラ)を、自らの体質と欲望と想像にそって、造ろうとしてきたのではないかと。そしてその都市とは、決して佳い匂いの漂う美しき夢の都市などではなく、雑然と人々と物事とが交差し氾濫する俗世界である。つまり、そんな都市を見たくて、造りたくて、ぼくは紆余曲折の凸凹道をカメラと共に歩きつづけてきたのだろう。

~後略~
森山大道「犬と網タイツ」月曜社 より

この考え方が、私にはとてもよく分かった。

私の中で漠然と燻っていた、都市の写真を撮りたくなる感情の原因を的確に言い当ててくれた気がした。

本当はそんなことは全く考えていなくて、
これを読んだ一瞬で森山先生に影響された(毒された?)だけだったのかもしれないが。


とにかく、私も自分にとっての仮想都市[シャングリラ]を造るために、
そのような使命を持って写真を撮っているような気分に浸った。


薄汚れた都市。
人間が作る世界は綺麗も汚いも全てがごったまぜになった混沌である。
とても美しいの一言で語りえない現実世界。

喜びも悲しみも癒しも苦しみも美しきも醜きも有も無も現物も概念も全てが混ざり合って熟成されたものが社会である。

私自身も社会の構成員の一人であって、混沌の一部である。


しかし、混沌の渦中にいてはその全体像をとらえることはできない。
地球からでは銀河系全体を俯瞰できないのと同様である。


カメラはこの混沌たる世界から自身を切り離す一種の観測装置である。

カメラのファインダーを介して世界を観測することで、私は社会の構成員という立場から切り離されて純粋な観測者となることができる。


森山先生は犬の視線と形容したが、人間界を在る種の超越的な立場から見つめるという意味では、その視線は神にも等しいのではないかなどと考えてみる。

全てを超越した観測者たる視点を持つもの。
ファインダーの手前にいる限り、世界は私に一切の手出しはできない。
何人たりとも私に干渉することはできないのである。


と、ここまでは悪くはなかったのだが、カメラを携えた神たる私に世界が手出しできないのと同様、私自身も世界に対して一切干渉することができないのであった。

私は神たる観測者などでは全く無く、ただ無力な傍観者だった。
やはり森山先生が書いたように、犬の視点くらいがちょうどいいのかもしれない。
犬の視点。しかし、私にはそれが心地よかったのである。


。。。

森山先生があとがきに残した言葉によって、
私は私が写真を撮る理由、或いは撮りたい理由が明確になった。
私は私の自分だけのシャングリラを造りたくて写真を撮っていたのだ。
別に趣味が好きな理由を明確にしなければならないという制約はないが、
心の片隅でずっとぼんやりとしていた感情の霧が晴れてすっきりした。

心はできるだけすっきりしていた方が気分がいい。


すっきりしたところで、私の理想のシャングリラとは何だろうと考えてみる。

実は私が見たい都市像も大体森山先生が書いていた通りで必要十分だと思う。しかし、これほど感銘を受けたとか言っておきながら、それはあまりに失礼だろうと思うので、より私に馴染むように改変した自分の言葉で表現してみようと思う。


やはり私の理想のシャングリラは誰もが憧れる華の都ではないのだと思う。
世界はこのままでいい。
様々な背景を持った人間が、その思惑が、醜く美しく交錯して為す景色が私にとってのシャングリラなのだ。何故惹かれるのかは結局よくわからないが、その景色を徹底的な傍観者たる犬の視点から見つめていたい。自分の状況も思想も全てを忘れ去って心地よい淀みに身を預けた状態で切り抜いた現実世界の断片を集めた先に私の理想のシャングリラは完成する。




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