【10分スケッチ】「いつか味がするのである」と信じて進む

それがどんな味かはわからないけれど、「いつか味がするのである」と信じて進んでみること。そのうちに、味があること、あったことに気づく。
(そう、味はある。だから、だいたいそのうち何かしらの味に気づく。)
味があることは信じているけれど、それがどんな味なのかは未知であることが必要。
その味が分かってしまうと、進む面白さがなくなってしまうから。
あらかじめ目指す味がどんなものなのかを詳細にイメージしてから進む方がどんどん進める人もいれば、それがわからないまま進む方がどんどん進める人もいる。単に、色々なやり方がありますよね、という話。
他者とのコミュニケーションによって、お互いの違いを乗り越えながら確かめ合ったり分かり合ったりすることはきっとできる。
が、面倒くさい。
(ひとりでも芸術や自然に触れれば、知らない味に出会うことができる。場合によっては、好きな味を好きなだけ味わうこともできる。)
では、なぜ、わざわざ面倒くささを乗り越えて、他者(生きている他者)とコミュニケーションし続けなければならないのか?(「乗り越えるべき」という社会観念も強そう。)
究極を言うと、「なぜなら、コミュニケーションを諦めたら、地球が滅びてしまうから」。
ひとりひとりがコミュニケーションを諦めてしまったら、今日明日は大丈夫でも、30年後ぐらいには地球は滅びてしまう気がする。
(巨大隕石とかで勝手に地球が滅びるのは仕方がないけれど、人間が地球を滅ぼしてしまうのはいやだ。ホッキョクギツネとマルハナバチと苔のことを考えよ。)
私は、地球を守りたいのでもなく、地球を良くしたいのでもなく、ただ地球を滅ぼしたくない。
だから、自分が自分に許す範囲で、地球を滅ぼさないための仕事を課すのである。
*
今日、ある方とざっくばらんに話した内容。
ただ、味のことを考えるならば、コミュニケーションの面倒くささは、望ましい味との出会いの蓋然性の問題かもしれない。
驚くような味に出会うかもしれないけれど、「またラーメンか…」の可能性を思うと食欲が落ちるような。
もちろん大好きな馴染みの店の味は別枠で、何度でも味わいたいものです。
芸術だってそんなもんだとは思うんだけど。
何かが違うんだろうな。
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