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【短編小説】『ポケットから一縷』



 リビングのエアコンを切って窓を開けると蝉の声がうるさくて頭が痛くなりそうだった。せりあがる憂鬱を押しのけるように、のろのろと歩いてこども部屋へ向かった。

 ようやく片づける気になれたわけではない。片づけることにしたのはこの家を引っ越さざるを得なかったからだ。もうすぐ私たちは離婚する。

 建売住宅だったが、私も隆文も気に入っていた。購入した当時、もうすぐ子どもが産まれる私たちにはすぐに入居できるこの家がありがたかった。周りには同じハウスメーカ―が建てた家が十数軒並んでいて、私たちと同じように若い夫婦が多かったのも決め手になった。

 この家に入居して半年後、涼太が産まれた。

 子ども部屋に入るだけで、まだ涙が出る。

 ちょうど一年前の日曜日、涼太はお昼寝をしていて、私は夫の隆文に涼太をまかせてスーパーに行った。夕食を作りはじめようとしたけど、食材が足りなかったのだ。まさかあんなことになるなんて思いもしなかった。スーパーから帰ってくると隆文も涼太もいなかった。二人でよく行く近くの河川敷へ散歩にでも出かけただろうと思っていた。隆文から電話がかかってきた。

「いま、どこ?」
「帰って来たよ。そっちこそ、ふたりでどこに行ってるの?」
「違うんだ。いないんだ」
「え?」
「涼太がいなくなったんだ」

 私がスーパーに行って帰ってくるまで一時間もかかっていない。隆文は涼太を見ていたが、その寝顔を見ているうちにうたた寝をしてしまったのだ。

「十分もたっていなかったと思う」

 隆文の言い分はこうだった。たった十分。十分でいいから時間を巻き戻せたらと何度考えただろう。スーパーに行く前でもいい。夕食だって、あの時冷蔵庫にあるもので作ればよかった。隆文に買いに行ってもらえばよかった。きっと、涼太は私を探しに外に出たのだ。だから、私が家にいればよかった。あの時ほんの少し、ほんの少しでいいから何かが違えば、今もこの部屋に涼太はいたはずだった。

 三日間の捜索の末、涼太は川下で変わり果てた姿で見つかった。まだたったの四歳だった。

 私と隆文は半狂乱で小さな骸を抱きしめた。この世にこんな悲しいことがあることを知ってはいたけどまさか自分に降りかかろうとは思いもしなかった。それから、どうやって葬儀を行ったのか私はまったく思い出せない。このころのことはところどころ記憶が抜け落ちている。

 そして、この家の中に確かにあったはずの幸せは静かに崩壊した。
 うたた寝をした夫を責めても仕方がないと、あれは偶然が重なった上の事故なのだと、何度自分に言い聞かせても、隆文に対する私の怒りは消えなかった。

 具体的に隆文に何かを言ったことはない。けれど、私の恨みがましさは私から色んな形でにじみ出ていたに違いない。



 子ども部屋の真ん中で引っ越し業者から渡された段ボールを組み立てた。子ども部屋と言っても涼太はまだ私たち夫婦と川の字で寝ていたから、涼太のベッドはないし、小さかったから学習机もまだ買っていなかった。

 でも、小さなトランポリンや、ボール、アンパンマンのぬいぐるみやミニカーなどのおもちゃとチェストに入った衣類が目に入るだけで思い出が洪水のように押し寄せた。

 ひとつひとつを撫でるように確認しながら、おもちゃから段ボールに詰めていった。



 四個目の段ボールを組み立てて、チェストを開けた。私がいつも使う柔軟剤の奥にほんのり子どもの匂い。涼太の匂いがして鼻の奥がツンとした。
小さな肌着、お気に入りで何度も着たクマのイラストが入った緑色のTシャツは首回りだけ色が抜け落ちてきた。手に取っては広げてたたむ。そんなことを繰り返していると、なかなか箱をいっぱいにすることができなかった。

 小さなダッフルコートが目に入ると作業をしていた私の手が完全に止まった。ダッフルコートはネイビーで、ちいさな子どもの洋服にしては地味だなあと思っていたけど、これがいいと言われて買った涼太のお気に入りのコートだった。

「ええ! 涼ちゃん、こっちの青の方がよくない?」
「だって、パパとおんなじ! パパとおんなじがいい」
「そっかあ。じゃあこれにしようか」
「うん!」

 隆文が着ていたものとどこか雰囲気が似ていた。涼太は私のことが大好きだったけど、隆文のことだって大好きだった。

「僕も手伝うよ」

 子ども部屋ダッフルコートを床に置いたまま押し寄せる思い出に息が詰まりそうになっていると隆文がいつの間にか側にいた。

 隆文は痩せた。今の私と同じように。

「ああ。このコート……」
「うん。パパとおんなじコートだよ」

 涼太はこのコートをそう呼んでいた。

 隆文はコートにしがみつくように抱きしめた。

「ちいさい。ちいさいなあ」

 隆文はそう言いながら泣いていた。私も泣いた。

 早産で少し体重の軽い赤ちゃんだった。

 夜泣きがひどいときは隆文と交代で抱っこした。

 よくしゃべる子で、さとい子だった。

 犬や猫が大好きで近くにいると駆け寄っていった。

 お絵描きが大好きだった。

 そして、わたしたちのことが大好きだった。

「恵は僕を責めてよかったんだよ。僕は自分のことが今も許せない」
「だって、責めたってもう、涼太は……」
「それでも、よかったんだ。ぼくは恵が心を閉ざしているのもつらかった」
「それは……。私、あなたにひどいことを言ってしまうのがこわかった。本当にこわかった。だから……」
「うん。あれ? このコート、ポケットに何か入ってる」
「何?」

 隆文はパパとおんなじコートの左のポケットをまさぐった。涼太は左利きだったから涼太が入れたものに間違いないだろう。ポケットの大きさに合わせたように小さくたたまれた紙片が出てきた。隆文が紙片を広げると私たちは思わず顔を見合わせた。

 私たち二人の絵だった。丸と線だけで描かれた絵。他の人が見たってなんだか分からないだろう。でもそれが涼太がいつも描く私たちふたりだと私も隆文にもすぐ分かった。

「こっちがママで。こっちがパパ」

 涼太がそう言う声が聞こえてきそうだった。

「恵、あのさ」
「うん」

 隆文ともう一度やり直そうと思った。きっと隆文も同じ気持ちだ。これはきっと涼太が天国からくれたメッセージなのだ。久しぶりに空腹を感じて私は子ども部屋を離れキッチンへ向かった。蝉の声はもうしなかった。開けた窓から入る夜のぬるさに心地よさを感じながら、私は冷蔵庫を開けた。

                                       了

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