見出し画像

第8話 マリーナ・ベイ・サンズの屋上で直面する【訴訟問題】

勤務3日目で追いつめられる

ぼーっとしてんじゃねえよ
君って人をイライラさせる才能があるってよく言われない? ねえそうでしょ? 聞いてんだろうが!
うちはゼロベース思考で仕事するって最初に言ったよね。いちいち聞かないで
はあ? なんでそんな重要なこと言わないんだよ! ボケ!

電話でもメッセージでも、荻野さんの罵倒はやまない。
もっと仕事がんばらないと。そしたらこんな言葉をぶつけられることもきっとなくなる。私がだめなばっかりに、きついこと言われるんだ。辛いけど、がんばって乗り越えよう。

一方的にボッコボコに言われて受け流すこともできずに、全部真に受けていた。正常な判断じわじわと追い詰められる。

エリアマネージャーの仕事は商品管理やデータ集計、日本本社との連絡をはじめ、店頭で販売して売上ノルマを達成すること。あとはローカルスタッフとうまくやることも重要な仕事のひとつ。

日本人のお客さんは接客にも商品にも細かいので、接客を終えるたびにマニュアルを読んでおさらい。
その隣でだらだらスマホを見つめるスタッフに仕事してもらうために、一緒に食事をしたりおしゃべりしつつ指示を伝える。

お客さんへの接客と販売、スタッフと明るく元気におしゃべりして、荻野さんからのきついダメ出し。
誰も教えてくれない、自分で判断するしかない。研修1日で「自分で考えろ」と言われても、考えるための知識も経験もないんだってば…。

あ、だめだコレ。
ストレスとプレッシャーだらけ、消耗するだけのこんな働き方、長く続けられない。

なにか変えないと。
仕事を変える、つまり転職してこの会社を離れるのがいちばんいいんだろうけど、まさかシンガポールで勤続3日の人材を雇ってくれる企業と出会えるわけがない。

このマルチタスクと被パワハラ体質を続けていたら、体か心か、その両方か、確実に壊れてしまう。
嫌なことを頭の中から追い出して、うまく気分転換できる方法を探さないと。

「ジムいきなよジム。筋トレはいいよ、ビールがうまい!」

自分の現状を変えるためのいい打開策はないかと考えながらホステルに帰り着いて、いつものベンチでほろ酔いになってるししもんに聞いてみた。
興味が湧いたので詳しくツッコんでみると、ししもんは近所のジムで筋トレを初めて体が絶好調になったらしい。

ジムか。
行ったことないけど、気分転換になんかよさそう。海外のジムっていうのも面白そうだし。
「いくつか見学に行って比較検討するのがいいよ」というししもんのアドバイスに従って、ジム探しを始めることにした。

フィットネスジムとマリーナ・ベイ・サンズ

翌日。シフト制の勤務で、この日は休みが割り当てられていた。
「singapore gym」とドキドキしながら英語で検索して、何件がヒット。
そのうち、ホステルからいちばん近いジムまで行ってみることに。

オフィスビルにくっついてるジムの看板を見つけた。ガラス張りのドアの前にカウンターがあって、中のスタッフと目があった。
Hi と笑顔で手を振ってくれる。私も笑顔を返しつつ、緊張していた。でもワクワクする。

カウンターで、このジムを見学したいとたどたどしく英語で伝えると、もちろん大歓迎! といわんばかりに案内してくれた。

日替わりのダンスレッスンがあるスタジオ、マシンがずらりとならんだトレーニングエリア、写真でよく見るフィットネスジム。
日本で見るのとあまり変わらない気がする。ジムのデザインって世界共通なんだな。

見学ツアーを終えたあとに、まあちょっと座ってといわれソファに座ったらお茶を出された。
お、いよいよ本題だな。料金とサービスの話がくるんだと身構える。

月額100ドル(約8000円)で、日替わりのダンスレッスンもマシン利用も無制限。
ただしこれは1年契約の値段で、さらに今だけ1ヶ月サービスしてくれるって。

あれ? 思っていたよりずっと安い?
給料3000ドル(約24万円)を来月もらえれば、13ヶ月パッケージ1200ドル(約9.7万円)なんて一括で払えるかも!
スタッフやジムがかなり好印象で、比較検討そっちのけでこの時点で契約にかなり前のめり。

あと、うちの会員向けのパーティーやるんだ
会場はなんと、マリーナ・ベイ・サンズの屋上だよ

「なにそれ、行きたい! でも、ジム会員の契約まだしてないよ?」

会員じゃなくても、誰でも来ていいよ。参加費もいらないし

「すごい! いつやるの?」
シンガポールの象徴であるマリーナ・ベイ・サンズの屋上でパーティーを開催する豪華さと、軽いノリの招待にワクワクする。

それがまさに今夜なんだ

平日夜にパーティー! 
シンガポールらしい景気の良さなのか、このジムが経営が好調なのか、勢いがあって面白い。

現地に直接向かう約束をして、受付のスタッフと連絡先を交換した。
今度来るときは契約しよう。仕事で嫌なことがあったら、ダンスして走って忘れたらいいんだ。

気分転換から一転して緊急事態

ウキウキしながらジムを出ると、熱気ですぐに汗をかく。
毎日30度の常夏の国に四季はない。

初乗り80セント(約50円)のバスを適当に乗り継いで、窓から外を眺める。
クーラーがガンガンに効いてて、歩き疲れた体を休めるのにちょうどいい。

ガーデンシティと称される観光立国だけあって、緑があふれる美しい街並み。
旅行じゃなくて、私はここに住んでるんだ。ジム通いなんて始めようとして、生活に慣れてきている自分が少し誇らしい。

バスに揺られて自分の世界に浸っていたら、カバンのポケットにしまっていたスマホの振動でビクッとした。一気に現実に引き戻される。

どうしよう。
休みの日だし、出なくていいよね…。電話、出たくない。

振動したままのスマホをポケットから取り出せない。画面を見たくない。
ふっと振動が止まった。と思ったらすかさずまた振動する。

ダメだ、これ無視したら明日またこっぴどくしかられる…。
観念して、電話に出た。

なにやってんだよ!
きみ、訴えられてるよ?

荻野さんのあわてた声。うったえられてる、っていきなりなに?

これはエリアマネージャーの仕事だから、訴訟対応よろしく
オレはこれからプライベートで用事あるから、一切連絡しないで

訴訟?
なんで? 


私、接客中になにかした?
スッと血の気が引いた。考えても思い当たることはない。

気分転換の休みどころじゃなくなった。
なんで私が訴えられることになったのか気になる。バスを降りて、すぐにお店に向かった。

午後の閑散とした時間帯にお店に到着。
カウンターに座ってスマホをタップするスタッフにどいてもらって、パソコンですばやくメールチェックをした。
数件の新着メールのなかに、訴訟というキーワードを見つける。差出人は日本の本社。
クリックして本文を見ると、顧客による訴訟の通知が届いたと確かにある。

・3ヶ月前にシンガポールの店舗でスキンケア商品を購入
・必ず効果を実感できるといわれて購入した商品を使用したところ、皮膚が赤く腫れて深刻な状況
・商品の詳細な成分調査を専門の研究所に依頼している
・悪質な商品および販売だとして、シンガポール側の責任者を相手取って訴訟の準備を進めている

要約するとこんな内容だった。
3ヶ月前に購入?

ちょっと待って、私ぜんぜん関係ない!
シンガポールに来てもいない時期に起きたことで訴えられるの?
なんなの、この仕事…。

お客さんから訴えられた経験なんてない。どうしたらいいか予想がつかない。
荻野さんに電話しても、電源を切っているか圏外だというアナウンスでつながらない。

なんでもいいから誰かなにか教えてほしいと必死の思いで、中国語でのおしゃべりで盛り上がるローカルスタッフに聞いてみた。

「しらなーい」
「私たちの仕事はここでお客さんに商品を売ること。それ以外は雇用契約にないから」

バッサリ!
全く参考にならない!

いやな汗がでてくる。なんでこんなことになったんだろう。こんなことまで、エリアマネージャーとしての私の仕事なんだろうか。
スタッフがまさに言ってた「雇用契約に書かれたことだけやればいい」。
全く身に覚えのない訴訟の対応なんて、雇用契約にあるはずもない。

訴訟って、どうやるんだろう。これから私の身に何が起きるのか予想もつかない。
シンガポールまで来て、一体なにやってるんだろう。
ゆるふわOLもキラキラのオフィス勤務も実現できなくて、結局日系の接客業でしかもブラック企業。

これからどうなっていくんだろうか。
未知の体験の連続と、誰も助けてくれない孤独とプレッシャー、胸が押しつぶされるように苦しい。
お店のカウンターでパソコン画面を見つめたままの姿勢でしばらく固まっていた。

どれくらいの時間そうしていたのか、パソコンの横に置いていたスマホにポーンとメッセージが表示されてハッとした。

Hi 今どこにいる? もうすぐ始めるからおいでよ

ああそうだ。ジムのパーティーに行くんだった。
なんて気前がいいんだと大喜びしてたのに、すっかりそれどころじゃなくなった。
数時間前にした約束が、遠い昔のことのように感じる。

日本の本社にもう少し詳しく教えてください、どうしたらいいかアドバイスもくださいとメールで返信したけど、新着メールはなかった。
このままお店にいても仕方ないので、ショッピングモールを出て地下鉄に乗った。マリーナ・ベイ・サンズ直通の駅で降りる。

屋上エレベーターはこちら、という表示を見ながら巨大なエントランスを進むと、セキュリティチェックがあった。
持ち物を検査され、身分証としてパスポートを掲示。直通エレベーターに通してもらって最上階に到着した。

エレベーターが開いた瞬間に、大音量のクラブミュージックと夜の空気が流れ込んできた。
平日の夜だというのにフロアは人で埋め尽くされている。お酒を片手にしゃべっていたり、フロアの中央で音楽に合わせて踊っていたり、すごい熱気。
入り口のそばで、昼間に会ったジムのスタッフが受付に座っていたので、Hi と声をかけた。私のことを覚えていてくれて、やあいらっしゃいとチケットを手渡される。

人をよけながらフロアの先まで歩くと、ガラスの壁の向こうに夜景がめいっぱい広がっていた。テレビの旅行番組で見るような綺麗な景色。
両手をガラスにぺたっとつけて、夜景を見つめていた。
ビルや車のライトが無数にきらめく。たくさんの人の仕事や生活が放つ光の結晶。

お飲み物をどうぞ、と細長いグラスを差し出されて、ドリンクチケットを渡した。
おそらくシャンパンだろう、薄く色がついたお酒に細かい泡がぷくぷくしている。

屋上のバーで優雅にシャンパンを楽しむスポーツジムの会員で、勤務3日目にして激務でボロボロになってるブラック企業のエリアマネージャー。

どちらかが夢なのかもしれないと思うくらい、対照的な立場に同時に立たされた1日だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?