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「教える」「教わる」が絶対的な関係にならないように(「ザ・メンタルモデル」) | きのう、なに読んだ?

「ザ・メンタルモデル」を読んだ。

ティール組織」に関心を持った人たちがSNSで紹介していて、へええ、と思って見ていた。その後、身近な人が「今読んでいて、面白い」と教えてくれて、その人たちとこの本の話ができたらいいなと思って、着手した。

著者のひとりである由佐美加子さんは、「U理論」の訳者だそうだ。自己理解を深めることとか、自分への理解が深化・変化すると周りに対する見方や周りとの関係性が変わることに興味がある人は、面白く読める内容だ。カウンセリングやコーチング周りの人たちとか、「嫌われる勇気」が腹落ちした人なら、興味が持てるんじゃないかしら。

内容は、アマゾンの紹介文をご参照ください。本書の前半は、由佐さんがセミナーで受講者とやりとりする様子の再録となっている。後半は、改めての概念説明と著者たちのストーリーだ。

セミナーの再録部分では、由佐さんが受講者一人ひとりの悩みを紐解き、根底にある構造を解明していく。私は、内容には理解や共感を感じたけれど、本のなかでは由佐さんが話す分量がかなり多いのと、断定的な口調がちょっと気になった。もし実際その場にいれば、例えば、文字で見るより由佐さんの印象が柔らかいとか、本に採録された部分の他では受講生の話をじっくりきいているとか、あるのかもしれないから、何とも言えないのだけれど。

本書の内容からは離れるが、この文章の印象をきっかけに、一般的に誰かが誰かに教えるという行為には、どうしても上下関係があり、ともすると傲慢さが混じりやすいものだなあと改めて感じた。どんな場合でも教える側のほうが知識や経験が豊富だというところから始まる。教える側は一定の自信も必要だ。ある学校の校長先生が「教員というものは、自我が強いんだ。そうじゃなかったら、毎日、何十人かの生徒たちの前に立てない」と言っていた。

この上下関係は、宗教や体育会のような絶対的な関係か、あるいは開放的な関係の、どちらにも向かう可能性がある。私も教える側に立つことがあり、危なくてしょうがない。

絶対的な関係にならないよう、気をつけたいなあと思ったことを、備忘録として書いておこう。
①教える側の知識や価値観を絶対的なものとして強制しない。相対的なものの一つとして生徒側に選択してもらう。
②教える側が、生徒の質問や意見を「教える自分が答えを出さないといけない課題」と捉えない。「教える自分が学ぶ機会」「教えてもらう機会」にする。
③「善いことをしているときは、悪いことをしていると思うくらいでちょうどいい」という吉本隆明さんの教えのスタンスを守る。

3つめの吉本隆明さんの教えは、初めてきいたとき、私は全くピンとこなかった。こちらの講演録が分かりやすいと思うんだけど、どうでしょうか。

だいたい、いいことしている時とか、いいことを言ってる時っていうのは、だいたい図に乗ることが多いわけです。やっぱり、図に乗ることが多いし、逆なことを言いますと、他者が悪いことをしている場合には、けしからんじゃないかっていうふうになってしまうことが多いわけなんです。
だから、それは、そうではないのであって、だいたい人間っていうのは、微妙なところでいいますと、いいことをしていると自分が思っている時には、だいたい悪いことをしていると思うとちょうどいいっていうふうになっているんじゃないでしょうか。それから、おれちょっと悪いことをしているんじゃないかこれはっていうふうに思ってる時は、だいたい、いいことしてると思った方がいいと思います。
つまり、だいたいそのくらいで、バランスがとれるんじゃないかっていうふうに思います。
(略)
たとえば、電車のなかでお年寄りに席を譲って、それはいってみれば、それだけとってくれば、いい行いなんだけれど、それは人によりまして、なんかおもしろくないなぁっていう譲り方をする人もいますし、照れくさそうにして譲っている人もいます。少なくとも照れくさそうに譲っている時には、悪い気持ちしないなぁっていうふうに思うけれども、なんか、なんとなく、いいことをしているみたいに譲ってると、おもしろくないなぁって思うことがあるでしょう。
(「吉本隆明183の講演」より「親鸞の声」)

何かを教えるのも、電車で席を譲るのも、「相手に委ねる」ってことかなあ。

「相手に委ねる」のがなかなか出来ないとしたら、それはどういう心の構造に起因してるか…から解き起こされてるのが、「ザ・メンタルモデル」でした。

今日は、以上です。ごきげんよう。

(Picture by Solo Backpacker)


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