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詩集『さびていしょうるの喃語』(多宇加世)の感想

 多宇加世さんの詩集『さびていしょうるの喃語』が、オンラインストア「犬と街灯」様より届きました。
 もし興味がある方は、作者の多宇さんのnote記事に情報がまとめてあるので、そちらもご確認ください。

詩集『さびていしょうるの喃語』発売です|多宇加世 @tau_kayo #note

作者Twitter

「犬と街灯ホームページ」(近日再入荷)

 この詩集は、喃語Ⅰ〜喃語Ⅴの5章とあとがきによって構成され、文庫本サイズで317ページとボリュームのあるものになっている。

 あとがきにもあるように、この詩集には謎が多い。装丁もそのひとつだ。窓ガラスの結露のような水色に白いモザイクをかけたような絵が表紙に描かれ、裏表紙にはモノクロの穏やかな湖面のような絵が描かれている。水や光やモザイクのモチーフは内容を完全に掴みきれない喃語を想起させ、モノクロの波は、言葉のイメージの重なりによって作られた詩を想起させる。眺めているだけで想像をかきたてられるのは、詩も絵も同じだと思わされる。

 タイトルにも工夫がある。表紙や背表紙の「さびていしょうるの喃語 多宇加世」のうち、「さびていしょうるの」と「喃語 多宇加世」のフォントが異なる。「さびていしょうるの」は手書きのような味わいのあるフォント、「喃語 多雨加世」はユニバーサルデザインフォントのような非常に読みやすいフォントに見える。この本におけるそれぞれの言葉に込められた意味とフォントの響き合っている。

 本の小口をよく見ると、白いページと灰色のぺージがあることがわかる。灰色のページは基本的に各章の始まりとなっているが、「喃語Ⅳ」の冒頭の詩、p150〜p167が全てグレーになっており、約300ページの本の中心がグレーの紙で分かたれているように見える。このページの詩は、位置的にも内容的にも、この詩集の核であり、タイトルの「さびていしょうる」の正体が「多宇加世」であること、「さびていしょうる」が十四の頃からの出来事が詩となって明かされる。

 喃語(なんご)とは、乳児が発する意味のない声。言語を獲得する前段階で、声帯の使い方や発声される音を学習している。
 最初に「あっあっ」「えっえっ」「あうー」「おぉー」など、母音を使用するクーイングが始まり、その後多音節からなる音(「ばぶばぶ」など)を発声するようになる。この段階が喃語と呼ばれるものであり、クーイングの段階は通常、喃語に含めない。
(Wikipedia「喃語」より)

 あとがきには喃語について、「『空転する』勢い」と「書きたいこと」と「書くこと(詩)」が等価であり、(普通の文に見えるものも含め)この詩集のもの全てが等価に喃語であることが記されている。

 俳句では、例えば田島健一が「書かなければ忘れてしまうこと」と「書けば失われてしまうこと」について書いている。

 喃語における「『空転する』勢い」や、「書きたいこと」と「実際書かれたこと」のズレ、「書くという行為」にまつわる事象は、ジャンルの垣根を超えて大きなテーマである。ジャンルに関わらず、我々が言葉を放つときについて原点に立ち返るような一冊だった。

 この詩集の冒頭の詩は

シーツだけで眠った
糸だけで結んだ
じっとしていた

で始まる。多宇加世さんの詩は、冒頭の一行で立体的に景を立ち上げる力が強いものが多いと感じた。「シーツだけで眠った」には、一枚のシーツの白色や広さの空間、人物の登場と(「だけで」の)集中、眠りの暗さと深さ、シーツにふれる皮膚感覚やシーツの皺、そこに至るまでのシチュエーションなど、様々な情報を喚起する。二行目「糸だけで結んだ」は「シーツ」にかかり、三行目「じっとしていた」は「眠った」にかかるところもテクニカルで上手い。「だけで」や語尾「た」のリフレインだけでなく、3行とも最初の文字がi段で始めているなど、韻の操作能力にも長けており、口で詩を読み上げたときの心地よさが凄まじい。まさに喃語のように口に出してしまう詩になっている。

 私がこの詩集で一番好きだったのは、p36の詩「ajisai」である。4編の詩がバラバラに記され、それらが矢印で相互に結ばれる形で掲載されている。
 私は相互に矢印で結ばれる詩を見た瞬間に、人間の脳の神経細胞の模式図や、機械学習におけるニューロンの模式図を想像した。それぞれの言葉が相互に結ばれ、発火し、響き合う様は、まさに喃語が発生する瞬間の脳やニューロンようで美しい。実際、私が研究している「機械に言葉を自動生成させる分野」では、このような形で模擬的に人間の脳の神経細胞を機械で再現し、言葉が生み出される。詩の内容においても、「星」という名詞が4篇の詩全てに登場するが、星空の瞬きもまた発火するニューロンの群れのようである。
 イメージの重なりによって生み出される詩の形式が、紫陽花の4枚の萼の形と呼応し、相互に結ばれる矢印や「お星さま」の輝きが、喃語を放つニューロンの発火を思わせ、とても好きな詩であった。

 紫陽花(あじさい)には「七変化」と「四葩(よひら)」という異名があるが、4篇の異なる文体の詩が様々な彩度の響き合いを見せるのは「ajisai」と呼ぶにふさわしいだろう。
 現代俳句において紫陽花の句を3つ挙げるとすれば

てざわりがあじさいをばらばらに知る(福田若之)
あぢさゐはすべて残像ではないか(山口優夢)
紫陽花は萼でそれらは言葉なり(佐藤文香)

がある。福田若之の句については、下記リンクに作者自身の言葉で読み直されている。「知る」ということは「認識の獲得」でなく「認識の失調」であることや、この句の「言葉の片言性」についても言及されている。

http://hw02.blogspot.com/2017/09/blog-post_12.html?m=1

 詩「ajisai」や詩集のあとがきにある「喃語をJポップに載せたような」詩は、言葉の片言性を意識した俳句と響き合うところがあるかもしれない。

 あとがきには、詩をはじめたきっかけとなる強烈な体験や、作者の性と詩の関係、ペンネームの秘密と祖父のこと、作者が詩と喃語に込めた想い、「さびていしょうる」の謎など、様々なことが赤裸々に書いてあり、非常に読み応えがある。あとがきを読んだあとにこの詩集を読み返すと、喃語のように、解像度や解釈が変わるかもしれない。

 あとがきの後ろに、「早朝三時過」という詩が一篇掲載されている。中央揃えで書かれたこの詩は、この詩集のいわばエンドロールにあたるものだろう。名詞のイメージの重なりや喚起力によって景を立体的に作りあげる他の詩と比べて、この詩は「思う」などの動詞を中心に「私」の内面や感情について繊細に迫ったものになっている。
 「お願いだから君しか頼めない」という切迫した一言で、この詩は、そしてこの詩集は締めくくられる。詩や詩集がそれ自体で成り立たないように、喃語が言葉単体で存在しないように、作者の生活や読者の声をはじめとして様々なものによって詩や詩集が支えられていることを考えさせられる。私に頼まれたこと、私がこの詩集に託されたものについて考えるような一言だった。

 この詩集には多くの謎があり、書きたいことは山ほどあるが、この辺で筆を置こうと思う。ぜひご自身の手にとって読んでみてほしい。

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 ちなみに詩集とは別で、インターネット上で読める多宇加世さんの詩があるのでひとつ紹介する。タイトルは「アニメ」。

 冒頭「コマ撮り」について言及され、シーンの重ね合わせのように詩が生まれてくる。
 「海岸線の電車が緊急停止した」は、立体的に景を作りつつ、事件性で読者を引き付け、k音とs音の密な響きが心地いい。内容によるフックだけでなく、kとsの音の密感と、濁音とn音の響きが両立してるのがハンパなく好きだ。
 「雨が降ってきた 雷があたった! 電車の天井に穴が開く
 海から海水が吹いてきて 帯電していた車両にぶつかる」
の言葉・部首・イメージの重なりが響きつつ、次の語を牽引してくるのが心地いい。
 全体の構成として、後半に聴覚・嗅覚・触覚と五感情報を増やして読者を圧倒していくのはすごく勉強になった。
 海のモチーフや人魚のイメージを活かしつつ、猫と羊を出してくるのは脱帽した。
 「化学式で熱く すぐ耳元で」の化学式の抽象名詞の操作と処理の仕方が凄まじい。「化学式」という固い化学の抽象名詞を、「熱い」という触覚と、「耳元で」という触覚と聴覚で支えつつ、「すぐ」を挿入して七音にして、音数を整えつつ強調している。「もこもこと錆」のオノマトペの引き出し方はすごく勉強になった。
 一つ一つの言葉の処理の丁寧さや、五感やイメージの重なりへの感覚の鋭敏さ、内容と韻律による呼応によって、強度が高く魅力的な詩を作り上げていると思った。

 詩集をまだ買ってない方は、ぜひ一度読んでみてほしい。

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