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【掌編】私たちにふさわしい夕食

ばたばたと玄関で黒いパンプスを脱いだ。そのとき、足先が何かにひっかかったような気がして、よくよく見ると、黒いストッキングのつま先部分が破れていた。斎場では気付かなかった。きっと今破ったのだ、と思いながら、私は先に居間のほうへと入っていった夫の啓を追いかけた。啓は黒のネクタイをゆるめながら、居間へと入ってきた私を見ると、少し疲れの残る口調で言った。

「奈々恵、ありがとな。奈々恵にも参列してもらって、じいちゃんきっと喜んでるよ」

今日は夫の祖父の葬式だったのだ。昨日の夜の通夜から今日の葬儀まで、私たち夫婦は、隣県にある夫の実家にいて、いろいろ段取りを手伝ったり、参列者に挨拶をしたりと、とにかくばたばたと立ち働いた。お昼に精進弁当が配られて、食べたけれど、その後は車を三時間半飛ばしてようやく夜の六時すぎに自宅マンションへと帰り着いた。

明日からは啓も私も仕事だ。だから、今夜はとにかく体を休めなくてはならない。喪服のワンピースを脱ぎ、楽な部屋着に着替えると、私はストッキングをゴミ箱へ入れて「はー」とため息をついた。

「なんか食べたいけど、今日はつくる気力もないかも」
「いいよ、簡単なもので」

啓は、こういうときに「それでも料理して」なんて亭主関白なことは言わない。疲れている日はお惣菜でも、なんでもいいよ、と言ってくれるので、夜勤明けで寝ていたい日などは、甘えさせてもらっている。

台所には、そして見事に買い置きがなかった。パスタも面倒、ご飯も炊きたくない、すぐになんか食べたい。それも、胃にあまり負担がかからないもの。

「……カップラーメンでもいい?」
「いいよー」

啓もジャージに着替え、テレビをつけたが「いいや。今日はなんかにぎやかな番組見る気分じゃないな」と言ってすぐに消してしまった。

お菓子カゴの中にあった、カップラーメンは、ひとつがスタンダードな醤油味で、もうひとつがシーフードだった。上の紙ぶたをはがし、ポットのお湯を注いで三分待つ。ゆっくりと、部屋の中にスープの匂いが充満していく。

今日は六月にしては冷える夜だ。雨続きの天気だからかもしれない。つめたい指先をカップに押し付けて、温めた。啓は、どことなくぼんやりしている。

「もう、三分たったよ」
「そうか」

二人で、座卓の前に座り込み、熱くてやわらかい麺をすすった。ジャンキーで、チープで、でもぬくい味だった。弱っているとき、無性に食べたくなってしまうのは、どうしてなんだろう。

美味いな、の一言もなく、啓はゆっくりゆっくり噛み締めるように食べている。つられて私も、ゆるゆるとスープを飲む。体の力が、抜けていく。

世界から、親しい人がいなくなっても、私たちのお腹はすく。夫の祖父の顔を思い出しながら食べるカップラーメンは、大事な人を亡くした私たちにふさわしい夕食だった。

しんしんと、夜は無音で、私たちが麺をすすりあげる音だけが部屋に響いた。さようなら、啓のおじいちゃん。いままで、ありがとう。心の中でそう思いながら、私は啓の横顔を見つめた。遺影の写真と、目元が似てる。そう思ったけど、言わなかった。言わなくても、啓はそのことを知っている気がした。

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