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ずっと苦手だったテレビと仲良くなった

テレビや映画など、映像ものを見るのが子どもの頃から苦手だった。動くものはなんだかこわい、というあんまりな理由だ。本やマンガに比べて刺激が強く、どう受け取っていいのかを最近までわからなかったのだ。

でも、youtubeの視聴から慣れ、最近テレビを見たらいきなり「どう見たら面白いのか」がわかった。映像の見方は本の読み方と通じるところがある。いちどわかったら、テレビをものすごく楽しく見ることができるようになった。たぶん映画もこの先この見方で見れるようになるとお思う。

「どう見たら面白いのか」を考えるきっかけとなったのは、昔見たジブリの映画制作のドキュメンタリーを思い出したからだった。

ジブリのアニメは、細かいところまでものすごく現実を観察した結果、アニメとしてその画の一枚一枚が描き出されている。女の子のスカートのひらひらする感じ、古い家の玄関やお風呂の色合い、怒った顔から笑顔まで人の表情の途方もない豊かさ。

小説でも漫画でも映画でも、物語はおしなべてそうだが、まず現実の私たちが生きている世界・社会があり、そこで起きるいろいろな事象から取捨選択して、再編集をしたもの、だと私は思っている。

物語をつくる、そのためには、とくに描写をしていくには現実をことこまかく観察する力が必要だ。

まず、現実世界の赤くて熟れたりんごがあるとする。

それを言葉で「丸いが少しいびつな形をしていて、全体は赤いが光の加減によりところどころ黄味がかっているように見える」と表現するのが小説やエッセイ。

それを絵で描き起こすのが漫画やイラスト。(ACイラストより)

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カメラで静画や動画を撮ると、写真や映画・動画作品になったりする。

作品は、現実の事象やモノを、文字や絵やマンガや写真や動画に「変換」したものなのだ。現実のなにかがあって、頭のなかでそれを、適切な姿に変える。絵ならそのままのスケッチ、文章は言葉でスケッチ、写真や動画はカメラでスケッチするといってもいい。

テレビは、現実を再編集して文字の物語に編むための、宝の山だと今回改めて見て思った。

何より(当たり前だが)老若男女いろいろな顔の人が出てくる。とくにおじいさんおばあさん、おじさんおばさんの顔を見るのがすごく面白い。

みんな生きてきた人生が、表情に刻まれているようで、この人はどういう道をたどっていままで齢を重ねてきたのか、と考えてしまう。小説に私が出したい登場人物は、市井を生きる普通の人だから、一般の人の顔や服装をこうして眺められるのは、とてもイメージが広がる。

そして、テレビに映った自然の様子からは木漏れ日の参道の、光と影のバランスとか、高くそびえたつ木の幹の荒れた感じとか、岩がどんな暗くて濃い灰色をしているのかとか「これを文章に起こすにはどういう描写をしたらよいのだろう」と考えてしまう。

また、2019年の香港を旅するヒロシの旅番組からは、香港の街なかにある円柱の色がはがれて、白くなっている様子や、見知らぬ異国の料理を運んできた、ふくよかで眼鏡をかけた香港の店員の女の子、その子が着ているチュニックとスパッツのような服、などを観察できた。

幼いころから思春期にあたって、私にとって小説はとても大事なものだったけど、主に「現実逃避」の手段だった。でも、いま書き手として本を出す機会にも恵まれ、ちゃんと現実の社会や世界を見て、それを自分なりに再編集して物語にしないといけないと思っている。「現実逃避」のためじゃなく「現実を生きるための」作品をつくらないと、と思った。

もちろん、物語が「現実逃避」の手段になっていることは、悪いことばかりではなく、とくに思春期の学校と家以外に逃げ場がない子供にとっては、その手段として物語が機能することは有効だろう。また、日常に疲れた大人のための、逃避の物語があってもいいと思う。

でも、どこかで、物語は「ままならない現実を生きるための道しるべ」でもあってほしいと私は願うから、こうしてテレビや映画、ニュースやドキュメンタリーからナマの社会や世界を見て、物語に変換して編んでいくということは、大事なことなのだろうなと考えている。

というわけで、仕事をしながらつけっぱなしのテレビをチラチラ見て、ネットの番組表なども活用し始めた私なのだった。





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