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【小説】rebirth

花や木が好きだ。可憐な色合い、澄んだ青い匂い。植物は、いつも私の心を和ませてくれる。仕事のない休日、実家の庭に出て、土をいじっている時間が、私にとってはいちばんの至福のときだ。――その反面、ひとは苦手なのだけど。

季節は六月で、今月の庭は薄紫と白を基調に染め上げられている。ラベンダーと紫陽花の紫、クチナシとカラーの純白。ペチュニアやインパチェンスが、そこにさらにこまかな彩りを添える。

寄せ植えだったり、直接植えてあったり、とまちまちだけれど、私が手入れした花に囲まれたこの家は、訪れるお客さんをたいがい感心させるようだった。

今日の庭仕事を終えて、汗をふきふき玄関のたたきで靴を脱いでいると、妹の莢(さや)が階段から玄関のほうへ降りてきた。

「繭ちゃん、この間のお願い、大丈夫?」

妹は、姉の私を「繭ちゃん」といつも呼ぶ。私は「うん、考えてあるよ」と答えた。莢のお願いというのは、自分の結婚式に合わせて、ウェディングブーケやウェルカムボードの隣に添える大きなフラワーアレンジメントを私につくってほしいというものだった。

そういうのはプロの人にまかせればいいんじゃない、と言ったが、莢は「どうしても繭ちゃんにつくってほしいんだ」と言い張った。私は一度は「いいよ」とちゃんと言ったのだが、妹は、婚約者の高瀬さんと住んでいるマンションから、たまに実家に帰ってくるたび、私に「この間のお願い、大丈夫?」と何度も確認してくるのだった。

私は三十三歳、妹は二十八歳だった。五歳年齢が離れている姉妹だけど、性格はだいぶ違う。大人しく、家にこもって庭ばかりいじっている内向的な姉と、外で遊ぶのが好きで、友達が多くて、明るい妹。仲は良かったけれど、案の定、というか、やっぱり、というか、お嫁に行くのは妹のほうが先だった。

どちらがこの家に残って、老いた両親の面倒を見るか、という相談もないままに、妹は、社会人になってからすぐに、会社の先輩であった高瀬さんと付き合いだし、三年後には同棲を始め、家から出て行った。

「繭にも、いいひとが来てくれるといいんだけどねえ」

母も父も、残った私のほうに、良いお婿さんが来てくれるといいねえ、ということを、妹がいなくなってから、ときどき口に出すようになった。だけど、その反面、あまり期待もしていないようだった。過剰に大人しい、三十三歳にして、彼氏の一人もいままでいない、そんな私に、そう都合よくいいひとが現れることも、両親だけではなく私自身も、半信半疑といったところだった。

私は、冷蔵庫からカルピスの瓶を取り出し、マグカップに水と一緒に注いで割ると、自室に持って上がった。莢に念押しされたので、ブーケとアレンジメントのイメージスケッチを、もう一度考えようと思ったのだ。

白と紫の庭が、二階の自室から見下ろせた。あれは私の好きな色で整えた花たちだ。妹にはもっと、明るい色の花が似合う。ピンクや、オレンジや、黄色の、ビビッドな彩りの花たち。そんな色を基調にしよう、と思い、私はこの前鉛筆で描き上げたイメージ画に、色鉛筆で色を塗り始めた。

イメージを練っていたら、気が付くと夕食どきになっていた。今日は高瀬さんは飲み会だそうで、莢は、披露宴の座席配置を母と相談したい、という理由で、今夜は泊まっていくという。食卓には、お客様になった莢の好物である、母手作りのハンバーグが並んだ。莢は、肩の出るドレスを着るからダイエットしてるのに、食べ過ぎちゃうよ、と文句を言いながらも嬉しそうだった。

私は食べ終えると、シンクに汚れた皿を重ねた。お茶碗洗いは、この家に残った娘である私の役割だった。蛇口をひねって、出てきたお湯をスポンジに染み込ませると、私は洗剤のボトルを棚からとった。

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翌日は月曜日で、私は目を覚ますと出勤のために着替えをした。無難な黒いカーディガンに、白いシャツ、チャコールのプリーツスカートを合わせようとしてから、ふと気づいてカレンダーを見やった。今日はあの予約がある日だった。

ならば、と服装を考え直し、カーディガンを薄手のグレーに替え、首元がボートネックになっている薄いピンクのブラウスを合わせた。こんなささいな違い、たぶんたくさん女の人を相手にしているあの人にとってはどうでもいいことだ。でも、私にとってみれば、今日は、月一回の特別な日だったから、この服装には意味がある。

黒くて重たい通勤カバンを提げて、腕時計をはめると、私は階段を急ぎ足で駆け下りた。

家から徒歩十分の駅から、電車に揺られて二十分のところにある私立大学で、私は契約事務職員として働いている。大好きなお花のことを仕事にしたい、と若い頃は思っていたが、花屋にはだいたい運転免許が必須とのことであきらめた。

すごく怖がりな私は、運転ができない。カルチャーセンターなどでのアレンジメントの先生にも憧れはしたが、その仕事こそ、社交性がものすごく必要ではないかと恐れをなして、踏み出せないでいる。

結局、親に家に置いてもらいながら、家からそう遠くない大学のパート事務の仕事に就き、総務課でデータ入力をしたり、お客さんにお茶を淹れたり、職員の勤怠管理をしながら毎日を過ごしている。

社会人として、なんとか口に糊しながら、休日は園芸にいそしむ。人生にはほどほどに満足していた。生きていくためにお金を得ながら、趣味の庭づくりを、一歩一歩極めていければそれでよかった。それ以上の何か素敵なことを望んだら、それはもう自分の人生ではないような気がした。

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職場が退けたあと、私は家ゆきの電車にすぐには乗らずに、学生街を駅とは反対方向に歩いて行った。歩くこと十分。今日は私がいつも月一回通っている、美容院の日だ。私の髪は生まれつき多く、適度にはさみを入れてもらわないと、すぐにもっさりしてしまうのだ。

美容室の木でできたドアを押し開けると、受付のスタッフの女の子が「いらっしゃいませ」と柔らかな笑顔で迎えてくれた。予約時間を記してあるカードを取り出し、彼女に渡すと、上着とカバンを引き取ってクロークにしまってくれた。

「シャンプーは花野で、カットは谷本でよろしかったですか?」

受け付けスタッフの子の声に、おずおずとうなずくと、すぐに席に案内してもらえる。大きな白い一人掛けの椅子に、体を沈めた。すぐに、ファッション雑誌も三冊運ばれてきた。

平日の夕方の美容院は、休日よりは比較的すいている。仕事帰りで疲れていても、ここで髪をシャンプーしてもらい、肩をマッサージ、髪をカットしてもらうと、すごくすっきりするから、私はあえて疲れている平日に、リフレッシュとして予約を入れることが多い。

シャンプー担当をこの春からしてくれている新人の花野さんが、すぐに来てくれて、洗髪台のほうへと案内してくれた。花野さんはまだ二十二歳だそうで、頭の上できゅっとまとめたお団子がとても可愛い。メイクも派手過ぎず地味過ぎず、自然な感じで、好印象だった。

シャンプーの時間、私は気持ちがよくていつも寝てしまいそうになる。他人に髪をさわられている時間って、どうしてこんなに気持ちがいいんだろう。彼女の指の腹が、私の頭皮を撫でていく。適温のお湯で、髪を洗い流されながら、ついうとうとしてしまう。

シャンプーの時間が終わると、花野さんに肩のマッサージをしてもらいながら雑談する。この美容院で働いている子は、みんな気さくで、こちらを不快にさせるような話はけっして持ち出さない。そういうところも、社員教育が徹底されていて、私がこの美容室をひいきする理由のひとつだった。

少し、胸のあたりが緊張してきた。ドライヤーの時間が終わる。そろそろカットが始まる。わざと雑誌に目を落として、気にしない風を装っていた私だったが、背後から、

「絹田さん、こんにちはー」

という谷本さんの声が聞こえてきて、心臓の鼓動がはねあがった。急いで鏡の中の自分に向き直り、鏡の中の谷本さんと目を合わす。谷本さんは、ここの美容院の副店長で、年は私の二つ上らしい。そして、私が、今一番気になっている人だった。もう三年も、カットの担当をしてもらっている。そして、話の端々から想像するに、独身らしかった。

「今日もいつもの通りでいいですか?」

谷本さんが、のんびりとした口調で私にたずねる。私は「いつもと同じにしてください」と小さな声で答えた。普段の大人しさがさらに輪をかけて、借りてきた猫のようになってしまう。

谷本さんは「わかりましたよー」と言って、私の髪をすき、髪の流れにそって、はさみを入れ始めた。ときどき、谷本さんの指が、私の頭にあたる。それだけで、本当に、どきどきした。

『担当美容師の人が好きなの? それって、見込みがないも同じだよね。相手がどんなに優しくても、それも接客技術のうち。見た目だって、美容師だから、それなりに格好いいと思うけど、だめだよ、たいていそういう人は、女がいるか、遊び人だよ。そもそも、美容師に恋するなんて、繭、本当に高校生のときから変わらないままなんだね。もっと、真剣に結婚につながる相手を探しなよ』

友人の明海につい先日言われた言葉が思い起こされて、胸の奥がずきっとした。明海の言うことは正しい。正しすぎて、私の幼い恋心はどこにも行き場がない。思わず目をつむった私に、谷本さんが髪を切る手をとめて、

「あ、髪が目に入りましたか?」

と心配そうに言った。私は「大丈夫です」と答えた。ならよかった、と谷本さんが鏡の中で笑った。今日の谷本さんは、ゆるくパーマをかけた髪に丸メガネをかけて、うっすら無精ひげを生やしていた。細身のパンツ、大きめの白いシャツ。そのどれもが、悔しいほどに似合っていた。

こんな人、私に釣り合うわけがない。私の普段といえば、重たい黒い前髪に、着古したカーディガンに、流行遅れの長めのスカート。体型だって、もったりとしていて、友人たちには「繭って、ふくふくしてて、ぬいぐるみのクマみたい。癒されるー」と冗談めかして言われるほどだ。

さっきシャンプーしてくれた、花野さんが、店の床をモップで掃いているのが横目に入った。あの子くらい、細かったら、綺麗だったら、若かったら、おんなじお店で働いていたら。私にも、谷本さんの横に並べるチャンスがあっただろうか。

らちのあかないことを考えても仕方なかった。お客から出過ぎるつもりなんて毛頭ない。ただ、谷本さんが、仕事上、すごくたくさんの女の人の髪をさわって、きれいな女の人をたくさん見て、そうしているのを想像すると、少しだけ苦しかった。

と、私は、谷本さんに伝えないといけないことを、はっと思い出した。こきざみにはさみをあやつっている谷本さんに、私は「あの」と声をかけた。

「六月二十五日、妹の結婚式なんです」
「それはおめでとうございます」

にこやかな笑顔を見せた谷本さんに、私は勇気をふりしぼって言った。

「妹は、会場の控室で、メイクや髪のセットアップをするんですけど、私は式の始まる二時間前までに、式場に行けばいいことになってて。式は一時からなんです。それで、谷本さんに、私の髪をセットアップしてほしいんです。なので、二十五日の朝イチで、予約を入れてもいいですか?」
「もちろん、いいですよ。なんなら、メイクもいたしましょうか」
「いいんですか?」
「ええ、妹さんの晴れ舞台だから、絹田さんも、きれいにしていかないとね。僕にお任せください」

私は顔を赤くして、うつむいたまま「ありがとうございます」とお礼を言った。顔をゆるゆると上げると、私は、勇気をふりしぼって「お願い」をしてみた。

「その、髪のセットアップに、…………を使うことって、できますか?」

ええ、もちろん、と谷本さんは笑って、私の髪をくしゃり、と触った。

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髪を整えてもらって、家に帰ると、玄関横に莢の車が停まっていた。今日も来ているのか、式が近いからかな、頻繁だな、と思って、一歩中に入ると、莢の泣きながら怒鳴る声が聞こえた。

「もういい、結婚なんてやめる、全部白紙にする!」
「落ち着いて、落ち着いて、莢」

中から母のおろおろした声も聞こえて、私は何事かと慌てて居間へと入った。莢が畳に座り込んで泣き伏し、母がその横に寄り添っている。父は、座椅子に座っていたが、腕組みをして、渋い顔を隠そうともしない。

「なに、なにがあったの」
「莢、繭にも話してもいいの」
「……私、から、話す」

莢はふらふらと立ち上がると、私と向き合い、吐き出すように一気に言った。

「高瀬さん、社内の女の子と、二股してたみたいなの。結婚式の直前になって、私たちの家電に、不審な無言電話が何度もかかるから、どうしたんだろうと思って、高瀬さんに問い詰めたら、その子が犯人だってわかったの。高瀬さんは、もうその子とは別れたって言ってるし、どうか結婚式も、とりおこなってほしい、って懇願してきてるんだけど、私、もう信用できなくなっちゃって」

それは――それは気の毒だ。もし、莢じゃなくてこういうことが私の身に起こったとしたら、どれだけ時間をかけても、立ち直れるとは思わない。

つらかったね、それはひどいね、と私も莢に寄り添いながら、背中を撫でた。両親と高瀬さんの電話での話し合いにより、莢は一週間ほど実家に帰ってきて暮らすことになった。結婚式の当日まではあと三週間。

式を延期、中止するかどうかは、莢がもう少し落ち着いてから決める、ということにとりあえずなった。母も父も憤慨していたが、一番傷ついているのは莢に違いない。とりあえず、私は着替えをすませて、何も手についていなかった母の代わりに、冷蔵庫であったもので夕飯をつくると、家族みんなに食事をさせた。

莢と父がそれぞれの寝室に行くと、母が「やれやれ」と座椅子にへたりこんだ。私は、母の分も熱いお茶を淹れると、そっと湯呑みを差し出す。と、母が口を開いた。

「母さんも父さんも、繭に『早くいいひとが見つかったら』ってよく言ってたけど、いまはもうなんていったらいいかわからない。繭、ゆっくりでいい、慎重に相手は探しなさい」

うん、と私は軽くうなずいて、自分の分のお茶をすすった。いくら慎重になろうが、たぶん見込みのない恋だろうけど、でも、これで真面目な婚活をもう少し先送りして、谷本さんに片思いをしていられるかな、とも思い、自分の発想をちょっと莢に申し訳なく思った。

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一週間経ち、莢は高瀬さんとの結婚式と入籍を、無期延期することに決めた。私が作る予定だった、ブーケとアレンジメントも、それに伴い必要なくなった。私は、莢が可哀そうで、自分の描いたイメージスケッチを、破ってゴミ箱に突っ込んだ。

気分がくさくさするので、今日は休みだし、いつもの庭いじりをしよう。そう思って、階段を降りて玄関から庭へと出ると、私は六月の庭を見回した。今年は雨が少ない梅雨なので、頻々と水をやらなくてはならない。紫陽花の花びらの外側が、少し枯れかけてきている。

もうダメになった花を、ひとつひとつ摘んでいると、背後に気配がした。振り向くと、莢が後ろに立って、かがんで作業をしている私を見ていた。少しやつれて顔色が悪いので、心配になる。

「莢、今日は陽があたって少し暑いから、帽子がいるよ。倒れちゃうよ」
「……大丈夫。あいかわらず、繭ちゃんの庭はすごいね」

そうつぶやくと、莢は私の隣に膝を折ってかがみこむ。白と紫に彩られた、私のつくった庭をまじまじと見ながら、莢はぽつんと言った。

「私にも、繭ちゃんみたいに、打ち込めることがあったらな。そうしたら、つまんない女じゃなかったし、浮気もされなかったかも」
「ええ」

突拍子もない莢の言葉に、私はびっくりする。そんなことないない、莢のほうが、誰とでも話せるし、明るいし、素敵じゃない、と言うと、

「でもそれだけだよ? ほかにはなんにもないもん」

と、口をとがらす。莢は続けて、寂しそうに言った。

「六月の花嫁さんに、なりたかったな。――繭ちゃんは、幸せになってね」
「相手、いないよ?」
「それでも。それでも、繭ちゃんは、幸せになれると思う。なんか、私から見てそういう予感がする。滅多に人を好きにならなさそうだし、なったらその人で間違いない気がする」
「ないない、そんなこと」

いっそ私のしょうもない片思いを、莢に打ち明けてしまおうか、とも思ったが、すぐに両親にばらされそうなのでやめて、私は莢の頭を、ぽん、ぽんと触った。

「なぁに?」
「ううん、人に頭を触ってもらうと、なんか安心するんじゃないかと思って」

それは、私があの美容室で得たほっとする思いだった。

「……ありがとう、ほんとだね。安心する」

莢はそう言って、少しだけ私の隣で泣きべそをかいた。

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結婚式が延期になったため、予約をキャンセルすることを、谷本さんに伝えなければならなかった。私は、緊張しながら携帯をにぎりしめ、美容室の番号をプッシュした。プルルル、と呼び出し音が鳴って、電話口に出たのは、谷本さんだった。

「はい、美容室『楓』です」
「あの、絹田……絹田繭です。いつもお世話になってます」
「はい、こちらこそお世話になっております。どうされましたか?」
「妹の結婚式が、延期になってしまって。すみませんが、二十五日のセットアップは、キャンセルさせてください」

一瞬間を置いて、谷本さんの柔らかい声が聞こえてきた。

「そうでしたか。わかりました。また、予定が決まりましたら、担当させていただくので、お申しつけください」
「はい、ありがとうございます。すみません」

では、と電話を切ろうとしたときだった。

(繭ちゃんは、幸せになってね)

ついこの間の莢の声が、蘇ってきた。非常にとってつけたようだったが、私は、

「あのっ」

と言葉をつないでいた。谷本さんが「はい」と、返事をした。

「髪のセットアップとメイク、って、普段の何もないときでも、やっていただけるんでしょうか」
「……ええ、もちろん。いつでも、させていただきますよ」

「予定はなんにもないんですけど、この間お願いしたように、私の家の庭の花を使って、髪をまとめていただけないでしょうか。あの、どうしても、やってみたくって」
「はい、かまいません。腕によりをかけて、仕上げさせていただきます。いつに、なさいます?」
「あの、ご迷惑でなければ、今からでも、いいですか?」
「……二時からでしたら、お受けできますよ」

時計を見ると、一時過ぎだった。今から家を出たら、二時前には美容室には着ける。私は、あわてて何を着ていこうか考える。セットアップしたきれいな髪に、ふさわしい服でないといけない。

迷った結果、ひとめぼれして買ったけど、なんだか気恥ずかしくて長年クローゼットの中で眠っていた真っ白のワンピースにした。袖を通しながら、私、何やってるのかな、と少しだけ笑えた。

庭に咲く花――私が丹精こめて育てた花を、園芸ばさみでちょきん、ちょきんと切り落とし、水をふくませた脱脂綿でくるんで、輪ゴムでとめる。少しくらいの距離なら、これで花は持つはずだ。

家を飛び出そうとした私に、莢が声をかけてきた。

「繭ちゃん、出かけるんなら、傘持っていきな! 今日はこれから降るって!」

莢がパスしてくれた傘を片手に、もう片手には花の束を持ち、私は家を飛び出した。

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美容室に着くころまでには、雨脚はかなり強くなっていて、傘を差してはいても白いワンピースの裾や靴はしっとりと塗れていた。

(なにやってんだろう、私、こんな勢いだけで、予約して、飛び出して)

そう何度も心の中で思ったけれど、私は、初めて思いを止めることができなかった。谷本さんが、好きだった。どんなに見込みがなくても、自分が格好悪くても、谷本さんの手で、私を綺麗にしてほしかった。

美容室のドアを、肩で息をしながら、押し開けると、受付スタッフの女の子が目を丸くした。

「外の雨、だいぶひどかったんですね! 今タオル持ってきます、ふかなきゃ、風邪ひいちゃう」

受付スタッフの子が持ってきてくれた大きなタオルで髪や服をふきながら、私は自分の足が震えてくるのを感じていた。冷静になってみると、この提案は、やっぱりどこか、変だったかも。谷本さんは、どう思っているんだろう。そう思うと、怖かった。

席に案内されて、しばらく待っていると、谷本さんがやってきた。今日は、紺地のネルシャツを着て、ベージュのパンツを穿いている。メガネは、この間のものとは違っていた。

「雨、大丈夫でしたか?――じゃあ、お願いします」
「お願い、します。あの、これ、うちの庭の花なんですけど」

私はそう言って、持ってきた花たちを谷本さんに渡した。

「すっごく、綺麗ですね。ラベンダーと、あと、これは何かな」
「クチナシです」
「これは、誰が育ててるんですか?」
「……あの、私が休日に」
「それはすごいなあ」

思いがけず感心されて、心臓がばくばくする。谷本さんは、なごやかな笑みを浮かべると、

「じゃあ、メイクからしていきましょうね」

と言った。ケープをかけてもらい、たくさん用意された化粧水や乳液のボトルを使って、谷本さんが、コットンをゆっくりと私の肌にすべらせていく。その上にファンデ、おしろい、チーク、ルージュ、とひとつずつ工程を重ねていく。普段はやらないアイメイクも、してもらった。

「次は髪をまとめていきます」

くしとピン、そしてホットカーラーを使って、私の髪がまとめたり巻いたりされてゆく。自然と、二人とも、無言になった。

私の席のすぐ隣は、窓に面していた。大きなガラス窓を通して、雨がアスファルトに降りつづける音が、谷本さんが手を動かし続けているあいだじゅう、ずっと私の耳に、遠い潮騒みたいに響き続けていた。

私は何かに挑むように、まっすぐ前を向いて、自分の真っ黒い髪が、少しずつ形を変えていくのを、一瞬たりとも見逃すまいと見つめていた。

谷本さんが振り向くようなきれいな女の子に、ずっとなりたくて、でも、自分から髪や服に手をかけるほどの向上心もなく、「はじめから自分には叶わない」とあきらめて楽になっていることが、いままでの人生どれだけ多かっただろう。

谷本さんの手の温度が髪に触れるのを感じるたび、私は、子どもみたいに泣きたいような、でも安心するような気分になった。

谷本さんが、まとめ上がった私の髪に、最後にラベンダーとクチナシをバランスよくピンをつかって止めると、言った。

「……できました。どうですか? 僕は素敵だと思うけど」
「……なんだか、生まれ変わったような気分です」

鏡の中の私は、いつもの私ではなかった。肩より長い髪をゆるやかに巻いたあとトップでまとめ、ピンをたくさんつかって、落ちてこないようになっている。後れ毛もくるんと波を描いて、きれいに肩へと流れていた。

肌の色はいつもよりも透明感があり、目元がすっきりと色っぽく、厚手のくちびるもつやめいていた。でも、そのすべてが、やりすぎではなかった。引くところは引き、抑えるところは抑えて、全体の雰囲気が柔らかく仕上げられている。

そして、白と紫の花たちが、まとめられた私の髪の上で、輝くような存在感を放っていた。

「ビフォーアフター、すごいですね」

くだらないことを言ってしまった、と一瞬後悔したが、谷本さんは、背を折って笑った。

「そうそう、そんな感じ。いやあ、きれいなお花、本当に髪型と似合ってますよ」
「ありがとう、ございます」

「せっかくだから、これからどこかに行ったらどうですか。ほら、雨も上がったし」

谷本さんに指さされて、窓の外に目をやると、本当に、雨雲がきれて、うっすら陽光がのぞいていた。その提案も、良いように思えた。

お会計をすませると、私は、もう一度、深くお辞儀をして、谷本さんに「ありがとうございました」と言った。

「また、ぜひお越しください」

受付のスタッフと並んで、谷本さんがゆっくりと頭を下げる。つられて私も、何度も軽く会釈する。

雨上がりの夕暮れ、今日はこれからどこに行こうか。デパートにでも繰り出して、新しい服や靴を買おうか。それはたぶん、私が誰かと出かけるときのための――その相手は、谷本さんだったら、もちろん嬉しいけど、そうでなくても、喜べる気がした。

デパートの帰りは、美味しいケーキを両親と莢に買って、家に帰ろう。莢の高瀬さんへの悪口を聞いてあげて、励ましてあげて、ついでに恋バナというやつもしてみよう。

雨に濡れた街からは、初夏を思わせる涼しげな匂いがしていた。雨のあとだけの、特別な匂い。私は、その匂いを胸いっぱいに吸い込むと、颯爽とした足取りで、街の中心のほうへと、歩きはじめた。

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