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ちょっといいハナシ

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#学校

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑫ 「1つだけのメソッドに強制的にはめ込むのではなく、個に応じて道を拓いてあげる教育の幅」

昨日のことである。 仕事の為にトラックを運転していると、ちょうど登校途中の小学生たちが列を成して歩いていた。 その中で、一組の父娘に気が付いた。 小学校2年生くらいだろうか。 父親は、娘のランドセルを肩にかつぎ、少し前を歩いている。 娘は、今にも泣きだしそうな顔をしながら、父の後ろを歩いている。 「娘は、学校へ行くことを嫌がっている」ことは、遠目にもわかった。 大変失礼な言い方だが、そのお嬢さんには少し障害があるようにも見受けられた。 その子は、もしかすると、その障害の

少子化は、本来の教育を取り戻す、またとないチャンスなのだが・・・

個性のある人間を、全員一律に、1つの教科書で同じペースで、暗記中心に教えていく教育が行き詰っていることは、誰の目から見ても否めないであろう。 一方で、少子高齢化が進み、特に地方では学校の統廃合が進み、学校が亡くなった地域では、更に過疎化について絶望的な状況に追い込まれている。 しかし、本来の教育が、それぞれ子どもたち、生徒たちの興味関心に基づいて進められ、ソリューション的な観点から学習が組織されるならば、少人数の学校程、「恵まれた環境」にあると言えるのだ。 子どもたち、

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑪  「卒業後の長い人生を支えていく力」に 繋がる教育内容

当たり前のことだが、人生は良くも悪くも、予期せぬことの連続である。 特に、次々と直面する問題は、当然ながら「己の力」で解決し乗り越えていかねばならない。 誰かに相談したり、ネットの相談などに頼るのもいいけれども、やはり最終的には自分自身の力で何とかするしかない。 つまり人生において直面する問題の中で最も大変なこととは、「他に前例がない、自分自身にのみ 与えられた問題」なのだ。 ところが、である。人は物心ついた時から長い長い年月、費やすことになる「学校」では、「問題解決

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑩  教師が楽しんで仕事をすること

これが最も問題として深刻と言えるかもしれない。 「楽しむ」どころか、非常な心痛を抱きながら職務にあたる教師がかなり多いと言わざるを得ない。 結果、「心の病」により教師が長年に渡り休職することが、社会問題になりつつある。 そこまでいかなくとも、常に強度のストレスを感じている教師が児童・生徒の前に立つことは、非常に好ましくない状況である。 毎日、消化すべき内容が細かく計画されており、そのペースは児童一人一人の理解度など無視せざるを得ないほどの速さで流れている。 加えて、本来

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑨  学校に当然あるべき「社会性」

アメリカの教育学者デューイは、「学校だけで本来人間が身に付けるべき社会性を期待するのは到底無理であって、多くの部分を実社会に委ねるべきだ」と述べていますが、実にその通りです。 人が生まれて最初の「社会性」と言うべき関りを持つのが母親であって、それから徐々にその生活圏の広がりとともに社会性も身に付けていきます。 特に「学校(保育園・幼稚園も含めて)」というのは、その「社会性」を養い錬成すべき一番の機会であるのに、実際は実社会とはほぼ隔絶されているというのが現状です。 具体

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑦  人が本来持つマルチな才能を結実する機会

日本が明治という時代になって間もない頃、長崎では明治政府によって堂々と?キリシタン弾圧が行われていたが、そこにフランス人のカトリック神父でド・ロという伝説的な人物が現れた。 今でも市民の間では「ド・ロさま」と親しみを込めて呼ばれているのだが、苦難の時代の長崎に会って、彼は実にマルチな才能を発揮した。 以下、箇条書きにまとめてみた。 ※ド・ロは教会建設に際しては、設計・施工したばかりでなく、自らもレンガや泥を運び、農作業では、先頭に立って肥桶をかつぐような人物だったのだが、

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑥  個人が尊厳を保てるスペースと時間の余裕

.これについては、説明も必要ないような気がします。 生物学的に見ても、生存に適したスペースは必要であり、それは群れで生きる動物でも単独で行動する動物にとっても当てはまる事。 それを無視して、狭い檻の中でアヒルなどを飼育しているのが日本のよくある公園や遊園地。 その結果、どういうことが檻の中で起こっているか、覗いてみれば一目瞭然である。 一羽の「ターゲット」にされた弱い個体が、執拗に他のアヒル達から攻撃され、羽もボロボロに抜け落ちて、餌も口にすることができず瘦せ衰え、やっ

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ⑤  学習者を主体とした教育へのアプローチと、そのシステム

教師時代のこと。不思議なもので、研修会のようなものに”招集”されると、とたんに受け身となる。 通常は一斉聴講という形となる為と、そもそもテーマ・内容が自分の興味と合致していない場合がほとんどなので、無理も無いのだが。 現在の「学校」も、「いかなければならない」というカラーが強いので、児童・生徒が小学一年生の時から、延々と受動的な学習者という立場を取るのも無理からぬことである。 2021年の現在でも「テストや入学試験があるから、やらなければならない」というけっして高くない

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ④  トライ&エラー

この歳になってもまだまだ、未知の領域は途方も無く広く、初めて挑戦することは失敗だらけです。 ここで「トライ&エラー」が試されるわけですが、考えてみれば何らかの商売であっても人間関係でさえも、人生はこの「トライ&エラー」の連続ではないかと思うのです。 全てを学校教育のせいにするわけでは無いのですが、学校という場所はこの「トライ&エラー」が十分に学ぶ機会を提供していないと感じます。 エラーをすれば、エラーをした児童、生徒だけが分けられ、正解に至る公式を反復・復元するトレーニ

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ③  ソフト・ランディング

おそらく多くの人が感じていることだと思いますが、特に幼稚園・保育園から小学校に上がる時のソフト・ランディングは本当にひどい状態で、昔からほとんど何ら変わっていません。 幼稚園。保育園時代は保護者と一緒に登園し、登園した時には必ず保育士さんが出迎えます。 そして、保護者と簡単な連絡をした後、まず保育士が子どもと話をした後、他の事の遊びに合流させたりします。 (但し、私たちの時代には、自分たちで歩いて登園していましたが、それは同じ幼稚園に通う子どもがうじゃうじゃいて、集団登園し

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ② べースにあるべき「リスペクト」

「リスペクト」の無いところに、教育はあり得ません。あろうはずがありません。 最近でこそ、「人権学習」なども増えてきましたが、たった40~50年遡るだけども、この国の「リスペクト」は、おぞましいものでした。 「尊敬」という言葉があったとしても、それは教師が児童・生徒に対して強要するものであり、教師が生徒に対して向けるものは微塵もなかったと思います。 殴る蹴るの暴力はもちろん、精神的な辱めや侮辱など、ここに列挙するのも嫌になるのでやめておきますが、こういった経験は誰にでもあ

学校教育に決定的に欠けているものの一つ ① 自分で学習する時間・その方策

「勉強」「学習」と頻繁にこの言葉を使うが、一日の、いや一年の莫大な時間を割くその言葉の指すものは、「座学」であって、「自学」ではない。 しかし、どう考えたって「人が人生の中で学力を身に付ける勉強・学習」は後者。 その後者である「自学」は、「宿題」「課題」として、一日の大半を使い果たした夜間にゆだねられている。 当然、モチベーションは低いし、その方策もわからない。丸投げなのである。 従って、定着も無いまま、同じような「座学」が来る日も来る日も延々と繰り返される。 わから

私の教師ノート① ~転勤した同僚の初出勤に間に合うようハガキを職場へ送ってあげる

恥や失敗の多かった私の教師生活ですが、そんな中でも、「これは大事!」と思える幾つかのことがあります。 それはもしかしたら、他の職業の方でも使える場面があるかもしれませんので、記事として書いてみたいと思います。 転勤した同僚の初出勤に間に合うようハガキを職場へ送ってあげる 地方公務員である教員は、定期的な人事異動があります。 大人になっても勿論、その初日は大変な緊張があります。 「どんな職場か?生徒たちか?地域はどんな感じか?」等。 私の勤めた長崎県は、離島のとても多

私の教師ノート③ ~チーム・ワークは、求めるものでなく、与えるもの

「チーム・ワークが大事」という言葉。 小さい頃から、いったい何回聞かされていただろう?と思います。 大学2年。 関東の地方大学に入学していたものの、その内容は、想像していたよりもはるかに下回るもので、虚しさを振り払いたい思いでラグビー部へ入部しました。 もちろん自分の為に入部したのですが、チーム側にとってみれば「チームの戦力として使えるか?」だけだったようで、そのような扱いでした。 高校生からやり始めたスポーツだったので、それは十分わかります。 嫌気がさしたのは、ある