2020/04/25普段行かない場所

今日(4/25)は何故か高校を卒業してからよく会うようになった友人から「今暇?」という定型文のようなLINEをありがたく頂戴した

ちょうど暇だったので(いつもだけど)久しぶりに太陽光の当たり屋になるべくその依頼を承諾。自宅近くまで来てもらい、そこで待ち合わせ

その友人は俺との集合時間に8割型遅れる。これはここ数年付き合った研究データからもはや揺るぎないものだ。

そういった実績もあるので、最近彼と待ち合わせするときは、彼が待ち合わせ場所についた旨のLINEを受け取ってから荷支度を始めるようになった

普段俺は待ち合わせ場所には10分前には着いておくタイプの人間なのだが、彼と出会うときは例外だ

余談になるが、少し遠出するときは集合場所付近で気になるスポットがないが事前に調べるようにしている。
大体の場合集合場所に早く着き過ぎてしまうので、あたかも「今着きましたよ」感を出す為に集合場所に留まっていることは滅多にない。
あえて集合場所から少しずらした場所で何か面白いものがないか探している。「待たせてる感」とか「待ってる感」が嫌なんだよね

彼は珍しく集合時間通りに待ち合わせ場所についたらしい。少し悪いことしたかな、そう思ったけどあまり気にしなかった。さっさと着替えて荷物をまとめなければ

「今日何する?」

いつも通り特にすることはない。彼と出会うときは最初にこの作戦会議から始まる

「隣街いかん?」

そういえば最近行ってなかったな。こういう状況下だからこそ普段行くことが少ない身近な未知に挑戦するのもアリかもしれない

数日ぶりに出た外界は4月下旬の気候の通り、生暖かかった。昨今の自粛ムードを全力で守っている結果、そもそも外に出るという行為が週に1〜2回ほどとなってしまっている

外に出る度に「春だなぁ」と思う。そろそろ夏の影も迫っている頃か。こう何日も外に出ていないとだんだんと膝が痛くなってくる

歩き方を忘れてしまう!これを自粛あるあるとしてちゃんと記録しておこう。実際他の人がどうだろうか分からないが、多分と俺と同じぐらいの自粛具合の人間がほとんどなのだろうと思う。中途半端な自粛が程よい。あまり本気で卍自粛卍してしまうと歩き方を忘れかねない

隣町についた

休日なのもあってか普通に人通りが多かったような気がする。普段通り?
自転車から降りて徒歩移動。行き先を決めずにひたすら歩き続けた。

ふと気がついたときに知らない道を歩いていた。大通りのその先、まだ知らない場所と見知った場所の境界を知らず知らずに跨いでいたのだろう

「こんな簡単に知らない場所に行けたんだな」とふと思った。

鉄道で日本一周しようと、東南アジアやヨーロッパに行こうと、結局知らない道の価値は同等にあるのだとよく思う

例えば通学路から見えるあの曲がり角の先の景色を知らないのと、イギリスで泊まった家の裏道を知らない、っていうのはほぼ同義なんじゃないかって

そう思うとただぼんやり家にいてTwitterやニコ動、YouTubeを見て時間を潰すより、知らないあの道を進む方が価値があるなって行き着いた

いやこれも少し語弊があるのだけれど、Twitterニコ動YouTubeで見知ったものをなんとなく見るより、よく分からないけどもしかしたら楽しいかもしれないなにかを検索して見つけに行くとかそういうようなアプローチをちゃんとできたら良いなって思う。

知らないものを知る快感は手を伸ばせば簡単に得られるはずなのに、その手を伸ばす動作すら億劫になってしまう現状はあまり好ましくない

さて、よく分からない道の先にはタイ物?専門店があった。東南アジアに属する国旗の絵が店名の周りを取り囲んでいて、そういう感じの店なんだなと

一度は通り過ぎたが、5メートルほど歩いたところで「ごめんやっぱ行かねえと後悔するわ!」と友人に言って入店

店内に入るとインドカレーの幾多のスパイスの匂いがした。日本では嗅ぐことがない匂い

狭い店内をぐるっと回ったが流石に欲しいと思えるものがなかった。よく分からない店でよく分からないものが売っている、そりゃなにか買おうと思うのも難しいような気がする。正直タイ米より日本の米の方が美味しいし、スパイスは使う予定ないし、よく分からないものは手を出しづらいし

申し訳ないけど外出るか…とその店をあとにしようとしたとき、クーラーボックス内に「GUYABANO NECTAR」が置いてあるのを発見した

こんな場所にあったのか!

以前上野のアメ横、地下食品街に行ったときに見つけた不思議なジュース。また買おうと密かに思っていたものがここに売っていたことにとても驚いた

迷わず一本購入。よきよき

店員は東南アジア系の人でタイ人?だった。辿々しい日本語で「アリガトウゴザイマス」と言ってくれた

店を出て友人と駄弁りつつ帰路に着く
この道が知らない道だとしても「今から帰ろう」と思うと、それだけで知らない道が「帰り道」に置き換わるこの感覚がよく不思議に思う。

18切符を使っている時も、「帰ろう」と思った瞬間から景色の色が少し変わるような気がする。帰り道に気になるものがあっても「また今度でいいか」と思ってしまう。

不思議な魔力が帰り道にはあるのだ

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家に帰ってからGUYABANO NECTARを見ている時に

「こいつも途方もない旅の末にここに来てくれたんだな」
と思った

そういった視線になると、身の回りにある全ての物が実態を持ち始めるような気がして不思議だ。

改めてなにかを見たときに違和感を抱えてしまうのは、それ自体をちゃんと見ることができていなかったという裏返しなのかもしれない

「日常の解像度を上げていく」

そういった姿勢を意識していこうかな、とそう思えた

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