見出し画像

ひきこもりが"反出生主義"について思うこと

数年前、反出生主義を名乗るユーザーのTwitter投稿が発端となり
それまではあまり表に出なかった反出生主義という刺激的な思想が
ネット世間の注目を浴びることになった。

結局、その投稿されていた内容自体は「反出生主義」ではなく「優勢思想」に分類されるものだと粗が指摘されてしまっていたが、とにかく私はその件をきっかけに「反出生主義」という考え方に正式な名称が存在していたことを知る。割と驚いた。

子供ころ、世にある物事を少しずつ吸収し感情が育っていく中でそうした発想を頭の中で思いついたり、マンガやアニメのキャラクターにそういう理想を持った人物が描かれていることは何度も目にすることがあったと思う。

改めて興味を持った私は、ネット検索でそうした主義の歴史的な出典を知った後、今回の件の発端の場であるTwitterでも検索機能を使って、同様の主義を名乗っている人々の発信を調べてみた。

こちらはまた違った意味での衝撃だった。「反出生主義」を名乗るユーザーたちは、出産を希望する女性や妊婦らしきユーザーに寄ってたかり、彼女らを誹謗中傷するメッセージを投げつけていたのだ。何度も執拗に。その内容も、とてもここには書けないような下品で口汚い言葉ばかりだった。

根本的に出生にたいして"反"であり、生は苦痛であるとする彼らには、子を欲しがる人間や妊婦などは象徴的な目の敵であることは想像が付く。ただ問題はそこではない…。

そもそもの話しだが、自らの主義や思想的な立場がどうであれ、「妊娠」や「出産」という個人の重大な意思決定に対し、本人が助言を望んでいる場合を除いては、他者が土足で介入し、あろうことかそれを口汚く罵ったりすることなどはあってはならないと思う。これはどの宗教であれ、考え方であれそうだ。そういう面で、私はそうした行動を取っているネットユーザーに対して非常に深く失望をしたのを覚えている。

原点とされる反出生主義では、大まかには…

「生きることそのものが苦しみであるので
そもそも生まれてくるべきではない」

「子供を産めばその子に不幸を与えることになる」

という考え方から、一貫して出生に対しての「反」が唱えられているものである。しかし、現代ではこのような原点的な思想に留まらず「とりあえず出生に対して"反"であれば反出生主義」という風な急激な拡大解釈が起きており、様々な亜流も生まれているようだ。

そうした状況がある以上、現在ネットで反出生主義を名乗り活動している人らが、本来的な意味での「反出生主義者」であるかは怪しい。先述したTwitterでの妊婦罵倒でも薄々感じられたが、とりあえず主義を名乗ることで威を借りて、それを盾に好き放題言いたいか、八つ当たりしたいだけの人間も少なからず存在していそうだ。

ちなみに私個人としては、子供を作ることに対してはどちらかというと否定寄りの見方をしている。ただそれは個人的な経済事情、社会的立場、現代の世相を考慮した上での現状の持論であり、規模はあくまでも"自己決定"の範疇に留まるので、私は自分のことを反出生主義者ではないと思っている。

経済的に十分な余裕がある人で、あるいはそうでなくても本心から子を設けたいと願う人は、子供を大切に育てる覚悟があれば誰しも授かる権利があると思う。もっといえば、我が子を喰ったり殺したりする動物たちの世界でも長きにわたり出生は続いている。出生を否定する動物たちも居ない。彼らにもまた権利はあるのだろう。根源的には、出生とはヒトの理屈で測れるほど小さなものではないように思う。


反出生主義に対する反論

まずはじめに、これから書くことは「反出生主義」という考え方に強い愛着があったり、自身が信奉しているという人にとっては非常に不愉快な話になるかも知れないので、そういう方はこの時点で引き返し願うか、重々に理解した上で読み進めていただきたい。

それでは本題に入る。一部では「反出生主義には反論ができない」「反論ができない最強の理論」などという扱われ方をすることがあるが、個人的には全くそうは思わない。というか、そもそも「反出生主義」自体が理論として成り立っていない詭弁だとさえ思う。

「我らの信仰する○○教はこの世で一番正しい神から授かったので、その他の宗教はすべて邪教である」こんなトンデモ理論と同じくらい、土台の部分が"妄執"でできてしまっているからだ。

ここで改めて反出生主義の根本的な主張をかいつまんでまとめてみる。
「生きることそのものが苦しみであるので、そもそも生まれてくるべきではない」
「子供を産めばその子に不幸を与えることになる」
「死は最大の不幸なので、出生は子供をその不幸に巻き込むことになる」

これらが主張が軸になっているが、一つ目の「生きることそのものが苦しみである」というのは、非常に断定的かつ提唱者個人の私見に過ぎない。生きることが苦しみであるかどうかは人によって様々に違うし、状況でも違ってくるからだ。ただもっと致命的なのは「生きることそのものが苦しみである」と後半の「ので、そもそも生まれてくるべきではない」という理屈に筋が通っていないことだろう。生命がこの世に生まれることの是非が、苦楽によってのみ判断されることに何の確証も正当性も無いからだ。

二つ目の「子供を産めばその子に不幸を与えることになる」という主張もまた、一つ目と同様に「生きること=苦しみ」という妄執が前提になっており、これもまた人によるし、状況によるという脆さがある。また、この世が幸か不幸かという判断も、この世に知的生命体として生を受けられたものだけが可能な特権であり、最終的には出生できた本人が決めるものだ。現在生きている私たちが、自分の人生を幸か不幸か測ることができるように。

三つ目の「死は最大の不幸なので、出生は子供をその不幸に巻き込むことになる」についてもまた同様に、前提部分が妄執で成っている詭弁に過ぎない。不幸と同様に「幸福」の方もまた生物的に生まれることによって初めて出現する概念であり、これはその一方にだけ注視して切り取られた論になっている。出生=被害ととるか、出生=感謝ととるか、ここもまたそれぞれ個体の感覚で変わってくるものだろう。

総括すると、「生」「出生」という本来は多要素の複合であるものに対して、その一部だけを拡大して全体の是非を決めるという非常に偏った思想に仕上がっている。切り抜き報道によるマスメディアの印象操作や、シマウマの黒い毛の部分だけを拡大して「シマウマは真っ黒なウマだ」と勘違いしてしまう構造にも似ている。

感情機能が発達した人間が「死と生」「幸と不幸」にばかり執着し、この世の原理をそうした人間の感情という狭い視点のみから測ってしまうのも無理はない。ただ、人間が脳を得て感覚を取得し、言葉を覚えたり、感情を抱いたりするよりも遥かに前から地球上には出生というシステムが存在し、想像も付かない長きに渡って流れてきている。仮に出生が悪だとすれば、人間以外の動植物たちは悪の生命体なのだろうか? それどころか、出生というシステムを発生させた自然そのものも悪だろうか? 私には到底そんな風には思えない。

「反出生」という考え方ができるのも、地球上の歴史でポッと出てきた人間が、たまたま運よく知性を手に入れられたからに過ぎない。それに人間はまだ世界のことを何もわかっていない。宇宙はもちろんと地球上の事象でさえ、最新の科学を駆使しても理解できないことが山ほどあるのだ。知っている気になっているだけで、何一つ世界のシステムをしらない人間。そんな人間が、自分の存在よりも遥か昔から続ている「出生」という感情や感覚にも先立つ根源的な地球原理に対し、「善悪」や「是非」の判定を下すなど、あまりにも傲慢で無知な所業ではないかと、私はそのように呆れている。

本稿が「反出生主義」を名乗っておきながら自分でもどこか違和感を覚えていた人や、そうした主義主張に対して元から違和感があったが言語化できずにむず痒い思いをしていた人にとって幾らか役に立てば幸いだ。




このサポートという機能を使い、所謂"投げ銭"が行えるようです。「あり得ないお金の使い方をしてみたい!」という物好きな方にオススメです(笑)